2021年10月20日 (水)

閃光のハサウェイ【アニメレビュー】



アニメ映画『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』(以下『ハサウェイ』)は、1989年、まさにバブルと昭和と冷戦が終わるころに、ガンダムの生みの親である富野由悠季さんが発表した小説を、2018年に映画化を始め、なんやかんやで21年に公開された作品です。
つまり、30年前の小説の映像化ですね。

正直、古くからのファンの中には「あれを映像化しても、まったく、ちっとも面白くないぞ」と思っていた人も多かったと思います。
それが意外にもガンダム映画としては、大ヒットといえる興行収入20億円を超えるヒットになりました。
エリートの息子がテロリストになって自滅するという話でエンタメとして成立していなかったのですが、意外な健闘ですね。

コロナで他に娯楽がなかったなど、いろいろな要因があるかと思いますが、ISISやタリバンなどテロが身近になり、温暖化など環境問題が切実になったことで、現代人にとってテーマがリアルになったのかもしれませんね・・・と言うとそれっぽいですが、実は逆です。

富野が書いた『ハサウェイ』は「赤軍の子供たち」の話です。
つまり、ガンダムでニュータイプという、ヒッピーでラブ&ピースでフラワーチルドレンな救済を描いたけど、学生運動では世界は変わらず、Ζガンダムでは学生運動ブントの抗争を描き、赤軍派ネオジオンはあさま山荘(アクシズ)で自滅して、三島由紀夫(シャア)は市ヶ谷で誰にも理解されず死んでいった。

そんな敗北の後、世の中はバブルとラブコメブームで恋愛至上主義と消費社会に移行し、しらけ世代が「政治、だっせぇ」といっているときに、バブルの狂乱にも乗ることができなかった、遅れてきた青年がハサウェイです。
だから、彼は元カノのためにも、超絶美人ギギにも情熱をもてない、恋愛不能者として描かれているわけです。

たぶん、ハサウェイの同級生は、毎週末、ポンギにベンベで乗り付けて踊っています。

そんなユーミンで柴門ふみな東京ラブストーリ時代に「俺、三島のことわかりたいんだ」と言っている青年の話は「だっせぇ」し「生々しい」のです。

それが30年を経て、脱臭されて「リアルと感じる」程度には、遠い話になったということでしょう。(それと、現在がバブルの恋愛資本主義が破滅した時代という世相もある)

おっと、もう40行……導入が長くなってますね。巻いていきます。


私は『ハサウェイ』が最初三部作で公開と聞いたとき、話がぶつ切りになって、映画として駄作にしかならないと思ったのですが、意外とよかったです。
不条理カルト映画として見ると、話がちょん切られているというのもアリです。

この映画をカルト映画として見るなら、鬱気質の青年が、不条理を人生に感じ、恋愛にもテロルにも、本当の意味では情熱を感じないが、パイロットとして大空を駆け巡る時だけ開放感を感じられる、という話で、ええ話でした(涙)。


そんなハサウェイの敵ですが、軍隊の名前が「キルケー隊」といい、フラッグシップのロボットの名前は「ペーネロペー」といいます。
キルケーもペーネロペーも、オデッセウスという、広義でのギリシア神話に出てくる英雄の妻です。
ペーネロペーは、オデッセウスが戦争に行っている間、国と操を守った女性で西洋では純潔の象徴、キルケーは、オデッセウスの現地妻です。
オデッセウスの方は操を守ってないんですよね。まったく、男ってやつは……

正直、ペーネロペーやキルケーのエピソードが『ハサウェイ』の物語の何かを象徴しいる感じはありません。
「唐突なギリシア神話、なぜだろう」という感じですが、多分、宮崎駿への当てつけですね。

宮崎駿は『風の谷のナウシカ』を赤字ながら当てて巨匠あつかい。
これが許せなかったのでしょう。
「俺だって、ギリシア神話知ってるもん」とペーネロペーとキルケーを引っ張り出してきたんでしょう。

え?ナウシカは、宮崎駿のオリジナル漫画ですよって?
いや、ギリシア神話でしょう。

オデッセウスの冒険を描いたギリシア神話『オデュッセイア』に出てくる、オデッセウスが風で筏が吹き飛ばされて漂着する島の王女がナウシカアーです。

富野さん「宮崎がナウシカアーなら、俺はペーネロペーとキルケーだ」と。


さて、そういうわけで、『オデュッセイア』です。
英語では『ユリシーズ』ですね。

これは、小国の王、オデッセウスがトロイ戦争という、くそ下らない戦争に巻き込まれて、「もう木馬に化けて潜入しようぜ」とか言い出すところから始まる話です。


トロイ戦争が、どれだけくだらないかというと、始まりは結婚式に呼ばれなかったお局さん、女神エリスが「弟のアレスは呼んで、私は呼ばないとは許すまじ」と復讐することが発端です。

エリス……そういうとこやで。

で、エリスが、どんな嫌がらせをするかというと、結婚式の会場に「最も美しい女神へ」と書いたリンゴを放り込むのです。

世の女性は、一人の例外もなく自分が一番美しいと心から信じているので、さあ大変。
まあ、とりあえず、最終的には、女子グループの3TOP、ヘラ、アテナ、アフロディテの争いになります。
こういう女子の争いが起きたとき、男子は決して関わってはいけません。
しかし、うかつにもトロイの王子パリスが審判になってしまいます。

アホやなパリス。

で、自民党の総裁選のように賄賂合戦の開始です。
アフロディテがパリスに「この世で一番美しい女をやる」と言って総裁の地位を確保します。

「ということは、アフロディテがパリスの妻に?」と思いきや、パリスはヘレネーという女性を所望します。
いいのか、アフロディテ?

問題はヘレネーはすでに人妻だったということ。
そこは大国トロイの威圧力と女神の権威で押し切ります。
ミュケナイ国の王子の妻だったヘレネーを強奪。
ついでにスパルタの財宝も強奪です。
いや、別の国ですが……

全方位に敵を作ったトロイは、ギリシア連合軍に攻められるのですが、あまりに大国なので落とせないんですよね。
で、オデッセウスに参戦するよう要求が来るんですが、「そんなくそくだらねぇ戦争嫌や」と……

戦争は、いつも不毛ですね。

 

2021年6月26日 (土)

地球少女アルジェナ【アニメレビュー】

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最近、ESGというものを調べ上げています。
ESGというのは、環境や人権などを重視する経営手法です。

長らく、特に日本では、企業というのはカネを儲けて、株主に配当することが最大の使命という企業観が支配的でした。
最近は、ステークホルダー経営という形で、こうした株主資本主義への修正が加えられる傾向があります。
最近よく聞く「パーパス経営」というのも、パーパスという企業の目標をスローガンに掲げることが本質ではなく、社会をよくするという目的=パーパスが企業の存在意義で、金儲けは、必要不可欠ではあるが、まあ手段であって目的ではないという企業哲学の転換が背景にあります。

このような世の中の価値観の変化を目の当たりにしたとき、2001年に放映され、誰に知られるでもなく爆死したカルトアニメ「地球少女アルジェナ」を思い出しました。

「地球少女アルジェナ」は、「マクロス」や「創聖のアクエリオン」を代表作に持つアニメ作家、河森正治さんが原作・監督を務める作品です。

タイトルの「地球少女」からもわかるように、ジャンルは魔法少女もの。
魔法少女まどか☆マギカ」などと同じジャンルですね。

主人公は、有吉樹奈(ありよし じゅな)。タイトルのアルジュナをもじった名前です。
アルジュナといえば、多くの日本人にはなじみの、ヒンドゥー教の神話「マハーバーラタ」の主人公であるカウラヴァ王国パーンダヴァ派の王子ですね。

え?知らん?
そりゃそうだ。

物語は、この主人公 樹奈が、彼氏とバイクでニケツして、事故って死ぬところから始まります。
臨死体験で病院の集中治療室で自分の死体を眺める樹奈が、クリスという金髪オッドアイの美少年に宇宙に呼び出され、地球は瀕死の状態であること、地球に巣食うラージャという怪獣と戦い、浄化するなら、もう一度命を与えることを告げられます。

いわば「まどか☆マギカ」のキュウベイみたいなもので、僕と契約して魔法少女になってよ、と持ち掛けるわけです。

なお、クリスという名前が、「マハーバーラタ」でアルジュナを導く、ヴィシュヌ神の化身(アバタール)であるクリシュナから取っていることは、日本人ならすぐにピンときますよね?ね?

本作は2001年の作品なので、すんなりと契約した樹奈は生き返り、ラージャが現れる現場に急行します。
そこは、敦賀湾の原子力発電所。
地球環境保護団体SEEDが乗り込み、緊迫した雰囲気に包まれます。

SEEDの女指揮官は、もうすぐ原発事故が起こると所長に告げ、所長は「原発は4重の安全装置があるから、絶対安全だ」と切り返します。
2001年ですから、原発が絶対安全なのは当然ですよね。

そして、主人公そっちのけで、お話は原発の是非論に!
(主人公、原発の中にも入っていません)

結局、ラージャに攻撃され、暴走する原子炉。
どこか遠くにいるお偉いさんは、原発事故により「もしもの時は一千年の都も人の住めぬ死の街となる」と最悪の事態を覚悟します。

原発所長は、所員を全員避難させ、自分一人で、原子炉の暴走を止めに行きます。
その所長にSEEDの女隊長は
「原子炉はリスクが大きすぎるわ。それに建設コストや核廃棄物の保管を含めればほとんど採算は取れない。現に欧米では原発の建設を中止したり廃止したりしている国が」
と今週のお説教タイム。

アルジュナでは、毎週、登場人物によるエコ説教があり、シュールギャグとして楽しめます。

説教された所長は
「君に言われなくても分かってる」

意外と所長、原発推進派じゃないんだ。

そして青い光を放つ原子炉・・・

まあ、本来ならこれで西日本は壊滅ですが、これはアニメ、クリスの活躍で、なんとか最悪の事態は回避されます。
主人公の樹奈は、まったく役に立ちませんでした。

怒ったクリスは、樹奈に「お前は穢れている」「穢れを払え」と言って、樹奈を日本アルプスに捨てて帰ります。

そして次のエピソード、自然農、ようするに農地を耕さず、農薬も肥料も与えない、雑草と虫が育つに任せる農法をやっている仙人みたいな爺さんに樹奈は拾われ、近代農法の闇を学びます。

その後も、Mのマークが印象的なハンバーガーをめぐる、成長促進剤や保存料たっぷりの加工食品の闇とか、詰め込み教育の害、遺伝子操作の話を通じて、樹奈は地球の危機に目覚めていくのです。


この「地球少女アルジェナ」、2001年の放送当時には「なんじゃこれ」と思い、一周回ってシュールギャグかとも思いましたが、3・11を経験し、僕の中では再評価です。

自然農も「さすがに趣味の世界だよ」と思っていましたが、ESGを調べていくと化学肥料を使わず、農地を耕さない「リジェネラティブ農業」は、今日ではリアリティがあると知り、驚きました。

こうしたエコ話に加え、背景にあるヒンドゥー教サーンキヤ哲学(みんな大好きヨガの理論面ね)も今の時代に合っている気がします。
まあ、河森さんなのでサーンキヤ哲学そのものというより華厳っぽいと思いましたけど。

そういうわけで、エコとかサスティナを考える人は、ぜひ見てください。

2020年9月 3日 (木)

虚構推理【アニメレビュー】

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今日のアニメレビューは『虚構推理』、作家の夢である講談社文芸部から出ているミステリー小説を原作にしたアニメです。(いいなぁ、講談社文芸部)

推理とあるので、探偵ものですが、特徴は「真実を探求しない」ということにあります。
通常の推理小説は、科学的手法やコロンボのような尋問術を通じて、真犯人という犯罪の真実を暴く知的ゲームにカタルシスがあるのですが、本作は真実には無頓着です。

では、本作の知性とカタルシスは、どこにあるかというと「虚構」の構築にあります。

本作では、主人公の岩永琴子(大学生)が「もっともらしい嘘」を紡いで、相手を丸め込むことができたら事件が解決するという構造を持っています。

琴子は幼少のみぎりに妖怪に誘拐され、妖怪の世界の知恵の神に祭り上げられました。
妖怪世界で起きる事件の多くは、所轄の妖怪や神様が納得して心が落ち着けば解決するので、琴子の役割は、不安がっている妖怪や神様のわだかまりを口八丁で丸め込み、動揺を抑えることにあります。

着眼点にオリジナリティがあると思います。

さて、本アニメのストーリーは、この琴子が「鋼人七瀬」と呼ばれる怪異を消滅させる話になります。
ネットのうわさ話、つまり集合的無意識のようなもので力を得、実体化した、本来は存在しない妖怪である鋼人七瀬を消滅させるために、ネットでのレスバトル(ネットの掲示板やTwitterなどの議論)で、鋼人七瀬は存在しないというコンセンサスを作り出せれば琴子の勝ちです。


とはいえ、ネットの集合無意識が実体化するというのは、リアリティがありません。
そこで、これを解決するために、いろいろな仕掛けをしているのは面白いです。


まずは、主人公が押しかけ女房的にお付き合いしている本作のヒーロー桜川九郎の超能力を活用します。

九郎の一族には、件(クダン)という妖怪と人魚の肉が伝えられています。
件というのは、人間の顔をした牛の妖怪で、死ぬ間際に予言をするという妖怪です。
予言をすると死ぬので、予言一回分の命なのですが、この肉と不老不死をもたらす人魚の肉を混ぜて食べることで、予言して死んでも復活する無限予言マシーンになることができるという設定です。(ただし多くの人は拒絶反応で食べた直後に死ぬ)

ここで、作者はもう一つ仕掛けをします。
予言の意味を、未来を見る力ではなく、未来の可能性の中で、自分に都合のいい未来をつかみ取る能力とズラすのです。
これで、九郎のような件・人魚ハイブリッドは、未来の可能性を操作し続けることで、存在しない妖怪が現れるという、極めて可能性の低い未来を作り出すことができる、としたわけです。

なかなか、うまい設定構築ですね。

本作は、九郎の一族で九郎のライバルにあたる人物が、ネットの集合無意識のエネルギーを利用しながら、件・人魚ハイブリッド能力で鋼人七瀬を生み出したことに対して、琴子がネットのレスバトルで集合無意識のエネルギーを減少させて、九郎の件・人魚ハイブリッド能力を勝たせるというバディものバトルになっています。

こうした理詰めの設定構築力が本作の魅力ですね。。

琴子の設定も凝っていて、彼女は幼少時に妖怪に誘拐されて知恵の神にされたわけですが、その時に隻眼隻足に改造されています。片目と片足を取られているのですね。
片足・片目で立つ姿は、唐傘お化けを思わせます。
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これは、人外の能力を得るために犠牲を払ったという意味もありますが、もともとは古事記に出てくる知恵の神「久延毘古」(くえびこ)をイメージしたものでしょう。
簡単にいえば案山子の神様です。
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古事記では、大国主のところに小人の神が来るけども、その名がわからない大国主が、配下(?)の神に尋ねると「久延毘古なら、知ってるかも」と答えます。
大国主が久延毘古を呼び出しますが、やってきません。
なんで来ないかというと、久延毘古は案山子なので歩けないからです。
大国主が久延毘古のところに行き尋ねると、小人の神は少彦名神だと教えてくれます。
この故事から久延毘古は知恵の神ということになったわけです。

こうした設定の濃密さが本作の魅力ですが、実は私は、あまり乗れませんでした。
知恵を使って真実ではなく虚構を作るミステリーという着眼点は面白いのですが、「嘘でいいなら、何でもありだよな」と思ってしまうからです。

あとアニメは小説のように内心の葛藤など心理描写が薄くなるので、琴子が知恵の神というほど知恵があるように見えないのも惜しいところです。

琴子と九郎と九郎の過去の女たちの型にはまらない関係性など物語としての魅力はあふれているので惜しいところです。

本作のランクとしては
・90点:人類はみな見るべき
・80点:この作品が生まれた時代に生まれて幸福
・70点:アニメファンなら当然の教養としてみるべき
・60点:十分楽しめる
・50点:お好きなら見ても損はない
・40点:ファン向け
・30点:作りに難あり
・20点:お時間が惜しいですよ
・10点:見ることで支障が生じます
・10点以下:存在が社会に害を与えます

のうちの「60点:十分楽しめる」とさせていただきたいと思います。

 

2020年8月18日 (火)

神様ドォルズ【アニメレビュー】

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今日のアニメレビューを始めますどすえ。

今回取り上げるのは『神様ドォルズ』。
2011年放映の作品で、原作は「やまむらはじめ」さんが、『月刊サンデージェネックス』で2007年から連載した作品です。

田舎から都会に出てきた過去のある大学青年「枸雅匡平(くが きょうへい)」が、故郷の因習から逃れられずにトラブルに巻き込まれていく話で、一番のカラクリは「案山子」というロボットです。

空守村という村に伝わる鎮守の神様の力を宿した木製のロボットで、「隻」と呼ばれるシャーマンのみが操ることができるという設定です。
この神道的なロボという設定は個性があってうまいですね。

おそらく、この案山子は、日本の古代宗教における宿り木ですね。
日本の神様の依り代というのは、村の中にそびえる木なのですが、この「よりしろ」を屋根で囲ったものを「やしろ(社)」というわけです。
なぜ「木」かというと、日本の神様は「柱」だからです。
この神様は普段は村にはいないのですが、客神としてやってきて一時的に木に泊まるわけです。まあ、マレビトなわけです。
(なお都会の一般家庭にも年初には神さまがくるので門松を立てて宿ってもらいます)

さて、主人公の匡平は、村でも最有力の隻だったのですが、村で起こった猟奇事件を機に、村に嫌気がさして、隻の地位を妹に押し付けて都会に出たわけです。

その猟奇事件を起こしたのが、枸雅 阿幾(くが あき)です。
苗字が同じなのは兄弟だからではなく、田舎の支配者一族同士だからですので、誤解なきように。

物語は、安楽に大学生活を送っている匡平の前に、村の座敷牢に幽閉されていたはずの阿幾が現れるところから始まります。
阿幾も、もちろん案山子使いの隻なので、お話は双方の案山子が激突するバトルものになるわけです。
ただ、本作では、匡平は、隻を降りているので、妹の詩緒(うたお)ちゃんが前面に立つのですが・・・(キービジュアルも詩緒ちゃん推しです)

この詩緒の愛らしさも、本作の魅力です。
なにせ、このころは空前の萌えブームなので、こういう小さな女の子なしに商品は成立しません。

おそらく、この作品の映像化権を取ったプロデューサーは狂喜乱舞し、監督や脚本家は勝利を確信したでしょう。
個性的な設定、魅力的なキャラ、原作通りにきちっと作ればヒット間違いなしです。しかし、まあ、結局は主題歌どおり、不完全燃焼な内容になってしまいました。
(本作の主題歌は「不完全燃焼」。良い曲なので、結構バズりました)

原作8巻で話も中盤の段階でアニメ化しており、スタッフは、まずは前編として本作を作って、そのヒットを受けて二期で完結させるつもりだったようですが、完結してない作品なので売れ行きが悪く、二期はお蔵入りになりました。

そんな本作ですが、その位置づけを簡単にいえば『八墓村』が『のんのん村(のんのんびより)』になる通過点のような作品です。

『八墓村』は、田舎という前近代に、探偵の合理的・科学的推理という近代の光を当てることで、前近代を解消して近代に塗り替える話です。
結末はご丁寧にも、都会育ちの主人公が、故郷の八墓村にコンクリート工場という、戦後復興と産業化、つまり近代化の象徴を建築し、八墓村の前近代が克服されるというものです。
これが、1971年、三島が死んだ直後の日本のモードです。
イデオロギー闘争が生活主義に敗北し、日本という国が経済第一に突き進む時代ですね。

『のんのんびより』は、主人公である4人の少女が、ただ田舎ぐらしをする話です。
これは産業社会が挫折したバブル崩壊後、ゼロ年代(2000-2010年)に、バトルロワイアルとセカイ系にヒキコモリ、いよいよ疲れ果てて退行した10年代の日常系と美少女動物園のモードです。
近代に疲れ果てたので、葛藤も因習もない理想の前近代を作ってみたということですが、現実はそこまで単純ではないのでね。
(癒しという意味ではよい作品です。私も5周くらいローテーションで観てます。これと「私に天使が舞い降りた!」があれば、この先も生きていけると思います)

なんにせよ。ポスト八墓村時代の僕らは、近代の蹉跌も知っており、その克服の可能性を前近代に感じているわけです。だから少女になって、のんのん村に帰りたいというモードも生まれているわけですね。

「八墓村」の猟奇殺人に幕を開けた本作『神様ドォルズ』では、主人公は、その田舎の前近代から遁走します。
しかし、前近代は、決して彼を、つまり僕たちを許してはくれません。
阿幾の脱走と、主人公への襲撃は、阿幾の姿を取った前近代の闇の来襲です。

となると、この物語は、阿幾という前近代と向き合い、乗り越え、場合によっては阿幾という前近代を受容した先にある成長が描かれないと、視聴者は到底満足できませんね。

ところが不思議なことに、序盤、主人公の前に姿を見せた阿幾は、中盤以降、急速に存在感をなくし、話は、匡平に片思いする美少女隻の「まひる」による匡平ストーキング話に脱線していくのです。

いやまあ、まひるちゃんは可愛いですよ。
声優も棒演技が魅力の花澤香菜さんです。
なんと、本作「まひる」では花澤さんは、従来の棒演技に加えて、切れ演技を身に着けていました。
何というか、時速130キロくらいの棒球ストレートしか投げられなかったピッチャーが、あまり曲がらないスライダーを身に着けたみたいで、その成長には驚かされました。
(花澤さんは個性が光る素晴らしい声優さんです)

こうしたキャラの魅力はよく表現できている本作ですが、匡平と阿幾の決戦が描かれず、それは、僕らが近代と前近代に、どう折り合いをつけるかという問いにも応えられないという点で、結局、一つの作品としての最終評価ができないというのが本音です。

つまるところ「八墓村」的サスペンスが始まったかと思ったら、美少女萌えアニメに着地していたということです。それは近代の超克よりも癒しを求める時代の要請だったのかもしれません。

2020年8月15日 (土)

グランベルム【アニメレビュー】

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さて今日は、19年の夏アニメ『グランベルム』です。
ちょうど一年前の放映です。

魔法少女がロボットに乗ってバトルロワイアルを勝ち抜くという、『魔法少女まどか☆マギカ』にロボットが出てきたら、カレーにハンバーグが乗ってるみたいでゴージャスじゃん、という志の高い作品ですね。

物語は冒頭、平凡な少女、小日向満月(こひなた まんげつ)が放課後の学校で、異世界に変貌した学校に取り残され、そこで魔法少女が操るロボットの決闘に巻き込まれます。
『まどか』における「鹿目まどか」の立ち位置です。
悪役っぽい魔法少女たちに追い詰められた満月を、ほむらっぽいルックスの新月・エルネスタ・深海(しんげつ エルネスタ ふかみ)が助けます。
エルネスタの説明によると、1000年前、世界は魔法に満ちていたけども、当時の魔法使いが魔法を「マギアコナコス」(おそらくは決闘の舞台になっている異界)に封じ込めたとのこと。
エルネスタたちは、数十年に一度、魔術師の子孫たちによって行われる「グランベルム」というバトルロワイアルに勝ち残ることで、「マギアコナトス」にある魔力すべてを手に入れることを目的に戦っているとのこと。
今回の「グランベルム」も佳境に入っているのだけど、なぜか途中出場の権利を得てしまった満月も、特に明確な目標もないまま、「グランベルム」に参加します。

ここまでの書きっぷりから、私が『グランベルム』を評価していないと誤解している人もいるかもしれませんが、そうではありません。
なんというか、もう少しチューニングを行えば10年代を締めくくる名作になっただろうに惜しいなと残念に思っているのです。

何と言っても、美しい美術と感情を揺さぶる演出は絶品で、それだけでも見る価値はあります。
特に、11話終盤、最終決戦に臨む新月ちゃんと満月ちゃんの前、琵琶湖の向こうから赤く巨大な月が昇るシーンは、劇場作品級の圧巻です。
もう、このシーンだけでおなかいっぱいです。ごちそうさまでした。

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キャラクターも魅力的で、新月の幼馴染で新月の才能に嫉妬する魔術師アンナ・フーゴの狂いっぷりは、「全てをかけたストーキングと言う名のライフワーク」というキャッチコピーに結実しています。


さて、本作のポイントは「コナトス(コナトゥス)」です。
マギアコナトスは1000年続く魔力の結晶ですが、本来のコナトゥスは人類史2500年を経て探求が続く、世界の真理のことです。

長い年月で意味は変容してきましたが、簡単にいえば「自己保存力」のこと。
「在るものが、あるべきようになる力」と思えば良いかと思います。

例えば、土に蒔かれた種は、芽を吹き、茎をのばして、葉を張り、花を咲かせる。
種の中に花は入っていないが、何かの力で花になる。
木から切り離されたリンゴは、必ず地面へと落ち、地面で止まる。

こうした事象には「コナトゥス」が働いていると考えられたわけです。

このコナトゥスは、情報においては、情報の自己展開(自己組織化)として働き、人間の内面では「意志」や「自我」にかかわると考えれれてきました。

例えば、ホッブズは感情が集積することで「生きる意志」としてコナトゥスが形成されると考え、この流れを受けながら、ショーペンハウエルはコナトゥスを「権力への意思」と読み替えました。

これをさらに脱構築するのがニーチェで、ニーチェは「権力への意思」という用語を権力を求めるものでも、富を求めるものでもなく、意思ですらないと位置づけます。
つまり、「ただ生きたい」という純粋な生存本能が「権力への意思=コナトゥス」で、これは教育や文化で押さえつけられていると考えたわけです。
この考え方から、「理性を取り除き野生がむき出しになると強い」というイメージが生まれ、エヴァンゲリオンの暴走やビーストモードを生むわけです。

さて、ニーチェにおいて、コナトゥスは意思なき力となり、コナトゥスの世界形成力は、誰かの意志によって方向づけられる必要が出てきます。
コナトゥス自身は、何者にもなれるが何者にもなれないからです。
(この力の方向をアドルフ君が方向づけるとナチズムになるのです)

コナトゥスが、自らの世界形成力の方向を定める主人を求めて、人間にバトルロワイアルを強いるというモチーフで、近年成功している作品があります。
それは『真・女神転生III-NOCTURNE』というゲームで、東京受胎というカタストロフィで、東京が内に閉じた卵世界になり、その中心に輝くカグツチが、次に生まれる世界のありようの決定を複数の人間にゆだね、勝ち残ったものが、世界の創生者になるという物語です。
この世界のありようを「コトワリ」といい、「コトワリ」は人間にしか生み出せないというのが面白いですね。
世界の方向性には自我(エゴ)が必要ということなのでしょう。


さて、本作『グランベルム』ですが、コナトゥスというせっかくの舞台装置を用意しながら、物語の主軸は、グランベルム参加者の個人の事情の解決にとどまってしまいました。ゼロ年代モードのセカイ系の枠内にとどまったのは残念です。

できることなら、卑近な個人的事情から始まった戦いから世界的意義を見出し、創生の力と関わっていくような展開があれば10年代を締めくくるのにふさわしかったのに。

まあ、私が言いたいのは、10月末発売の『真・女神転生III NOCTURNE HD REMASTER』が楽しみで仕方ないということだけです。

 



2020年8月13日 (木)

ぼくらの【アニメレビュー】

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今回はゼロ年代を代表するビターな作品『ぼくらの』のアニメレビューです。

『ぼくらの』は、鬼頭莫宏さんの原作漫画を元にした2007年のアニメです。

漫画自体は、秋山ジョージさんの「ザ・ムーン」に着想を得たロボットものです。
原作とのテイストの違いなどもあり、原作ファンからは酷評されることもある本作ですが、今日の目から見ると、『魔法少女まどか☆マギカ』の先駆けともいえ、アニメ史的にも面白い位置にいます。


物語は・・・

臨海学校に来ていた中学生14名がココペリと名乗る謎の青年にロボを操って地球を守るゲームをやらないかと誘われ、「契約」をするところから始まります。
TVゲームと思い参加したところ、現実に巨大ロボットが現れ、彼らはそのパイロットとして、別に現れた敵ロボットと戦うことになります。
毎回、一人のパイロットが選ばれ、戦闘が終わるとパイロットは死にます。

負けて死ぬのではなく、勝っても生命力を吸われるように死にます。

その後、明らかになるのは、この戦いは、並行宇宙の間引きのために、それぞれの宇宙代表を戦わせ、勝った宇宙は残り、負けた方は宇宙ごと消滅するというバトルロワイアルだというカラクリです。
それを仕掛けたのは、我々とは異なる並行宇宙の人類で、我々よりも発展しており、宇宙が増えすぎることで、おそらくは並行宇宙全体が死滅することを避けるために、間引きを行っていると示唆されます。

正直なところ、問答無用で自分の宇宙だけを残して、片っ端から間引く方が効率的なのですが、他の宇宙の生き残りのための画策を搾取の手段にしているようです。

物語中では、我々の宇宙の財界が(子供たちの命に無関心に)ロボットの技術を経済活動に利用しようと、他の宇宙からエネルギーを吸い出す塔を建てたところ、それはトラップで、逆にエネルギーを永遠に搾取されるようになったという顛末になっています。


さて、本作は、ゼロ年代(2000年から2010年まで)に流行したバトルロワイヤル物の系譜なのですが、物語構造自体は、3・11の年にヒットした『魔法少女まどか☆マギカ』そのものです。

異界の悪意が思春期の少年少女を「契約」でヒーローにし、その見返りに宇宙を維持するエネルギーを搾取するというものです。

『まどか』は、おそらくは、ヤマト、ガンダム、エヴァに並ぶアニメ史のエポックとして記憶されるでしょうが、その原案ともいえるような『ぼくらの』は、知る人ぞ知る佳作にとどまってしまいました。

これも時代性というものでしょう。
ゼロ年代というのは、バブルが崩壊し、ロスジェネが認識され始めたころで、まだロスジェネは、たまたま就職難の時期で、その世代が不幸なのは当人の努力不足ととらえられていたころです。

それが11年の東日本大震災による意識変革で、世代間搾取の構造が露になったことが大きいかもしれません。

少年少女(若い世代)が世界のために犠牲になっている、という構造が一過性の景気変動ではなく、社会構造の変化として固定化されたため、まどかたち魔法少女の悲劇が、我がこととして受け入れられたのかもしれません。

あと、『魔法少女まどか☆マギカ』はストーリーはビターでしたが、最後はファンタジーで救っているので、視聴者が受け入れやすい、つまり罪悪感を持たずに済んだことも大きいです。

『ぼくらの』は、最後、子供たちは全滅し、その犠牲で我々の宇宙は救われるが、支配者へ一矢報いることもできず、搾取の構造も受け入れたままというビターな結末で、ちょっと救いがないのです。
ただ、この国が一直線に衰退しており、おそらく未来の子供たちは僕らの世代に搾取され、僕らは支配者たる他国に搾取され、その構造を変えることはできないという現実を正確に映しているのは『ぼくらの』の方なのですが・・・

でも、そんな現実、ごまかした方がヒット作にはなりますよね。

ヒットの原理は「共感と気づき」と言われることもありますが、本作は気づきたくないことへの気づきの強要があり、共感を排除しているというのが、通好みではあるのですが、大衆化しないポイントと分析いたします。
ヒットを作りた人は、『ぼくらの』を反面教師に、最後は甘い砂糖をまぶしましょう。
『まどか』になれます。

 

2020年8月 6日 (木)

serial experiments lain【アニメレビュー】

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今日のアニメレビューは『serial experiments lain』、アニメとしては98年の作品です。

この作品は、日本史、日本アニメ史ではなく、日本史において、極めて重要な位置にある作品です。
それは、日本の指導的立場の人々が、本作を理解していれば、その後の日本のIT敗戦はなかったかもしれないという意味で。

まずは、作品のあらすじから。

主人公の女子中学生、岩倉玲音のもとに、自殺した同級生から「私は肉体を捨てただけで、まだ生きている」「こには神さまがいる」「早くワイヤードに来て」というメールがくる。
そして、下校中に死んだはずの、無言の彼女に会う。
その後は、友人と訪れた渋谷のクラブで、自分のドッペルゲンガーが徘徊していることを知る。
玲音は、真相を知るべくワイアード(要するにインターネット)の世界に足を踏み入れる。

本作品のクライマックスはLayer:09(第9話)で、世界観の根幹が、かなり乱暴に暴露されます。
それは、ニューエイジ思想家たちの虚実入り混じった実験、理論、構想の積み重ねとして描かれます。

・ロズウェル事件、米国政府がUFOの残骸を回収し、宇宙人と密約を結んだという陰謀論だが、この事件の中心人物と目される科学者ヴァネヴァー・ブッシュは、1945年に反透明化されたスクリーンにマイクロフィルム化された情報を映し出すシステム「MEMEX」を提唱。この機械により人間の記憶を拡大することをもくろんだ(今でいうWikipedia)。

・ジョン・C・リリィは、インディオの麻薬物質とアイソレーションタンクによる感覚遮断実験によって人間の無意識を探り、無感覚の中、宇宙的存在を感じ、それを「E.C.C.O(地球暗号制御局)」と呼んだ。

・テッド・ネルソンは、衛星軌道上に巨大な静止電子図書館を打ち上げ、電波と電話回線によって地球上のどこからでも利用できるデータベースの構想、「Xanadu(ザナドゥ)」 を1960年に発表。現在のWorld Wide Webに結実している。

・地球には、電離層と地表との間、ELF帯に8Hzの周波数で常に共鳴が起こっていて、これを「シューマン共鳴」と呼ぶ。

・「バイラル・メディア」「デジタル・ネイティブ」などの概念を提起したことでも知られるダグラス・ラシュコフは、地球の人口はが脳内のニューロンと同じ数に達し、人間同士がネットワークで相互接続する事により、地球自身の意識をも覚醒しうると主張している。

本作は、こうしたニューエイジ思想家の思想を積み上げ、シューマン共鳴により、人間がデバイスなしに意識を接続させることができるのではないか、というフィクションを取り込むことで、ネット上に集合無意識が生まれ、ネットの集合無意識を人が現実として受け止める可能性を示唆しています。


重要なのは、このオカルト的展開ではありません。
重要なのは、シリコンバレーを中心とした、IT革命の基本思想は、こうしたニューエイジ思想であり、単純に便利なテクノロジーというものではないということです。

ただ、日本人にとって、ニューエイジはなじみが薄く、胡散臭く、受け入れがたいものがあります。
本質的に、ニューエイジは、西洋における近代化の失敗を、仏教などの東洋思想を取り込みながら乗り越えようとするものですが、日本人は、なまじ東洋人なので、切実な課題意識を持つことができず、西洋の物質文明の正義を鵜呑みにしているところがあるからです。

しかも、ニューエイジのコア思想は、相当に悪い意味でヤバイのです。
そのため、本作においても、ニューエイジの最大のグル(導師)の名は、周到に隠蔽されています。

その名は、ティモシー・リアリー、ニクソン政権に投獄された『神経政治学』の著者です。


リアリーの主張は、生物は8段階の段階を踏んで進化していくというものです。

人間は、今4段階目で、5段階目は、大麻などの薬物を通じて、3次元を超える認識を持てると言ってます。。

6段階目は、少し難しく、意識(神経組織)が、意識自体を再プログラムする、つまり、自らを新しい可能性に自分でプログラミングする段階と言ってます。そのためには、LSDなど化学ドラッグを使うと考えています。

7段階に入ると、科学ではよく理解できないというか、書いている本人もわかってないのではないかと思うのですが、神経組織がDNAから直接情報を取得できる段階と言ってます。しかも、DNAは、宇宙のすべての情報を持つアーカシックレコードだそうだ。(AKIRAのクライマックスは、この話)
リリーの研究者の中には、この情報を集団的無意識と呼んだりしますが・・・

第8段階は「量子レベルで脳ががユニットや関係をとりむすんでいく」と翻訳に書いてますが、書いた本人も、訳した人もわかってないだろう、という感じです。
まあ、日本のある天才が、第8段階を見事描いたのですが、それは後述。


さて、リリーの主張は、社会的にも健康上も受け入れられるものではないのですが、この思想から「電子デバイスを通じた人間知性の拡張」というコンセプトが生まれます。
その成果は、全世界で実現してますよね。
「そうiPhoneならね」

iPhoneというのは、アラン・ケイが、「MEMEX」と「Xanadu」を携帯できるように構想した「DynaBook」を具現化したものです(ケイ自身は両者の影響を明言はしてません)。

つまるところ、日本が受け入れられなかったITは、単に便利な新技術なのではなく、技術により人間の知性を進化させたいという思想が中心あったのですが、思想を嫌う日本では、その表面をなぞるしかできず、社会の中に存分に取り入れることもできなかったわけです。

日本人は、思想やビジョンの重要性を、もう少し実感した方がいいでしょう。

さて、長くなりましたが、最後にリアリー思想の日本における継承者について紹介しておかなければいけません。

リアリーの思想の中で興味深いものに「SMI^2LE」(Iは二乗)があります。
宇宙移民(SPACE MIGRATION)、知性増大(INTELLIGENCE INCREASE)、寿命延長(LIFE EXTENSION)の頭文字をとったものです。

「将来人類は、自分の好みにデザインした惑星である H.O.M.E.s(High Orbital Mini Earths 高軌道のミニ地球)に移住する。宇宙に出ると意識拡張が起こる」というものです。

どこかで聞いたことありませんか?

「ララアにはいつでも会いに行けるから」とか言ってますよね。


まあ、当人は「ハイラインの『宇宙の戦士』をモデルにしました。宇宙コロニーはオニールの構想です」といって、決してリアリーの名は口にしませんが・・・

 

2020年8月 1日 (土)

這いよれ! ニャル子さん【アニメレビュー】

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誰かに求められたような気がしたので、今日は『這いよれ! ニャル子さん』のレビューです。

『這いよれ! ニャル子さん』は、逢空万太さんの原作ライトノベルのアニメ化です。

おおよそ日米戦争以前の米国の作家ハワード・フィリップス・ラヴクラフトの生み出した「クトゥルー神話」と呼ばれる世界観をモチーフにしたお話です。

ラブクラフトの作品は、人知の理解を超えた異形の存在に翻弄される人間の破滅というモチーフが基本です。
その恐怖表現は、恐怖の対象である異形の者は直接に描かず、恐怖に震える人物の手記や伝聞で語られ、結末も当人がどうなったかわからないというもので、余韻もあり心に刺さるものがあります。

例えば、異形の者の気配におびえる人物の手記で、どんどんとモンスターが近づいてくる記述が続いたあと、物語は「窓に!窓に!」という記述で締められているものは有名です。
窓の外に異形の者を見た手記の書き手のその後はわからないというのは、ぞっとするものがあります。

他にも、友人のウォーランと洞窟の探索をする話で、ウォーランは穴に潜り、主人公が地上に残って、有線電話で状況を聞いているという話があります。
クライマックスでウォーランの恐怖の悲鳴が聞こえたのち、電話は静かになり、主人公が必死に呼びかけると、知らない人物の声で

「莫迦め、ウォーランは死んだわ」


ラヴクラフトは、自身のホラー小説のジャンルをコズミックホラー(宇宙的恐怖)と呼んでいました。
未知なる宇宙には、人類の知性を超えた恐ろしい存在がいるということが、彼の創作モチーフだったからです。
宇宙の前に人間は無力だという世界観です。

ラヴクラフト自身は、第二次世界大戦(1939年)より前の1937年に亡くなっています。
まさに科学が自然を圧倒し、人類は万物の霊長とうぬぼれあがっていた時代なので、彼のような、「人間という存在の矮小さ」を描く作品は日の目を見ず、生存中は評価されましせんでした。
彼が評価されたのは1960年代、近代化の失敗が明らかになり、科学万能主義への反省が意識されるようになってからです。

ラブクラフト作品の評価が他の作品と異なる特徴は、その世界観を利用した二次創作的な作品が多く生み出されたということです。
彼の生前から、彼の小説教室の弟子などを中心に、ラブクラフトの世界観を利用した作品が書かれており、ラブクラフト自身もそれを奨励していたことが、主な要因です。

かのアーサー・C・クラーク、『地球幼年期の終わり』や『2001年 宇宙の旅』の著者ですが、彼もラブクラフトの名作『狂気の山脈』のパロディ『陰気山脈』を書いたりしています。

さて、『這いよれ! ニャル子さん』ですが、これはラブクラフトが生み出した人気キャラクター「ニャルラトホテプ」を、ずっこけ美少女にして書かれたパロディ的なラブコメになっています。
ニャルラトホテプの二つ名が「這い寄る混沌(Crawling Chaos)」ということで、これに「夜這い」をかけたのではないかと思います(憶測)。
「クトゥルー神話」は、クトゥルーのキャラやアイテムを使えば、それでクトゥルーなので、定義的には、これも「クトゥルー神話」になるのですね。納得いきませんけど。

物語は、高校生の八坂真尋のもとにニャルラトホテプ星人の美少女ニャル子が現れ、宇宙連合の惑星保護機構のエージェント、まあ宇宙警官みたいなものとして、彼を宇宙の人身売買組織からボディーガードするという名目で、彼につきまとうという話です。

物語構造は、完全なる『うる星やつら』に始まるラブコメです。
主人公のもとに次々と美少女が現れ、正妻ポジションのヒロインがやきもちを焼くということでオチをつける。
本作のオリジナリティは、クトゥルーのモンスターや舞台が登場し、クトゥルー神話に対する知的好奇心が刺激されるというあたりです。
基本的にはクトゥルーを知っているほうが楽しめるでしょう。
予備知識は要求されますが、クトゥルーの使い方の上手さには、知的なパズル感があって楽しいですよ。

このラブコメというジャンルですが、基本的に、主人公がモテてうれしいという読者の願望を、そのまま新鮮にパッケージした、純度100%のエンタメなので、特に人間性や世界の在り方について、深く考察するようなものではありません。
頭を空っぽにして楽しむものです。

そのための装置として、寸止めシステムが採用されています。
主人公は、どんなに美少女に言い寄られても、決して、誰ともくっつかないというものです。
シャレにならない嫉妬や葛藤は排除しないとエンタメとしては重くなってしまいます。
『うる星やつら』のあたるくんは、軽薄で女性に好かれないということで、決して恋は成就しませんし、本作の真尋は「宇宙人、こわ!」と思っているので、やはり誰ともくっつきません。
ラブコメというのは、くっつくまでのドキドキを楽しむもので、くっついたら、それで試合終了です。

まあ、現実はくっついてからが地獄なのですが・・・

 



 

2020年7月26日 (日)

コングレス未来学会議【アニメレビュー】

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今日のアニメレビューは『コングレス未来学会議』です。

2013年公開(日本では2015年公開)のイスラエルとフランス合作映画です。
とはいえ、実際にはかなりたくさんの国の参加があったようですが。

原作はスタニスワフ・レムの『泰平ヨンの未来学会議』、1971年のSF小説です。
スタニスワフ・レムは、ポーランドのSF作家で、日本で有名な作品は『ソラリス』(ソラリスの陽のもとに)があります。

映画『コングレス未来学会議』は、女優のロビン・ライトがプロデューサーの一人に名を連ねており、原作とは異なったテーマと構成になっています。
ロビン・ライトさんは、ネットフリックス躍進の立役者になった『ハウス・オブ・カード 野望の階段』で重要キャラクターのクレア・アンダーウッドを演じたことも印象深いですね。

さて、まずは原作ですが、これは泰平ヨンという宇宙飛行士の宇宙版ガリバー旅行記ともいえる泰平ヨン・シリーズの終盤のお話です。

未来学会議というのは、人口問題(人口爆発)を扱う国際会議で、そこに専門家でもないが義理で参加することになった泰平ヨンがテロで有毒ガスを浴び、その幻覚作用で夢幻の世界を彷徨うという筋立てです。

どうにもコールドスリープで140年ほど眠らされていた泰平ヨンが目覚めると、そこは豊かな理想社会でした。
しかし、違和感を感じたヨンは、次第に真実に近づいていき、その世界は、既に滅びに瀕しており、支配者は、その現実を隠すために、薬物で人民に「幸福で豊かな生活をしている」という幻想を見せているということがわかります。

「われわれがこの文明に麻酔をかけたのだ。さもないともちこたえられないんだ。だから覚醒させるわけにはいかない」
「合法に登録されている人口だけでも690億、他に登録されていない非合法な住民が260億はいる。(中略)ここ15年か20年で氷河期がやってくるだろう。その進行を阻止することは不可能だし、遅らせることもできない。できるのは隠すことだけだ」

SFなので薬で幻想を見せていますが、統計をごまかして不景気をイザナギ以来の好景気と言ってみたり、いつの時代も、どの国も、嘘偽りで現実をごまかしていることに変わりはありません。

為政者も手をこまねいて滅びを待っていたわけではありません。
他の惑星への移住を計画し、宇宙飛行士を送り込み、惑星改造を試みました。
しかし、起こったことは、専門家による偽の報告ばかりが返信され、予算が無限に膨らむだけで、何一つ進捗しませんでした。

「ウィルスのワクチンは1年でできます」とありえない報告をする「専門家」の意見を鵜呑みにするしかない政治家の姿が浮かびます。(治験をすっ飛ばして、安全性も効果も不明なワクチン物質ならできる可能性もあるけども)

さて、原作のテーマは、滅びという目に見える未来に、人間という生き物の業は手も足も出ないというものですが、映画版は少し変わります。

まず、未来学会議の前に、がっつり映画の尺の半分を使って、技術の進歩で「職業」を失う女優の葛藤を描きます。
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かつて大女優であったけど、今や落ち目のロビン・ライトに、映画会社が彼女のすべてのデータをスキャンし、電子女優にしたい、彼女本人は二度と演技をしてはいけないという契約を持ち掛けます。
この契約をめぐる葛藤の物語を実写で描きます。

ロビン・ライトやハーヴェイ・カイテルの見事な演技が光るパートです。
CGなんかにとって代わられるものか、というロビン・ライトの秘めた情熱が伝わってきます。

中盤からは、女優を引退し20年たったロビン・ライトが映画会社主催の未来学会議(本作では新商品発表会)に招待され、幻覚剤でアニメの世界に迷い込みます。
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ここからは陸地が海になり、奇妙な魚が泳ぐなど、サイケデリックな映像センスを楽しむパートになります。
日本アニメにはない映像センスをお楽しみください。
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映像については、万国アニメ名場面や有名アートの博覧会が見れます。
主人公が飛ぶシーンは「ハウル」を思わせますし、

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主人公の娘が所属している自然主義者の世界はヒエロニムス・ボスの『快楽の園』のようです。

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登場人物も、どこかのアートで見たような・・・

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本作はハリウッド批判は、がっつり入ってますが、文明批判は薄味なので、つながりは悪いのですが、終盤は、主人公が家に置いてきた障害を持つ息子を探して現実世界に帰ることになります(主人公がコールドスリープしている間に行方不明になっている)。

現実世界に戻った主人公に知らされるのは、息子は半年前に幻想世界(アニメ世界)に旅立ったという・・・すれ違いです。

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さて、ここで主人公がとった行動は・・・


本作の名優たちの演技とアニメと実写のシームレスな連携は圧巻です。
お暇があればぜひご覧ください。

 

2020年7月24日 (金)

Persona4 the ANIMATION【アニメレビュー】

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さて、今日はPS2の名作ゲーム『真・女神転生III-NOCTURNE マニアクス クロニクルエディション』が任天堂SwitchとPS4でリメイク販売されることを記念して『Persona4 the ANIMATION』のご紹介。

1986年に西谷史さんが発表したファンタジーSF『デジタル・デビル・ストーリー』のメディアミックスとして始まったゲーム『女神転生』(メガテン)の遠い子孫であるゲーム『Persona4』をアニメ化したものです。

『女神転生』シリーズは、交渉で仲間にした悪魔(仲魔)を使役してバトルをしながらストーリーを進めるRPGです。
ポケモンのハードテイストな源流と思えばわかりやすいでしょうか。
(ポケモンよりメガテンが先)

この『女神転生』シリーズの大ヒットを受けて、様々な派生作品が作られますが、派生作品の中でも人気が高いのが『ペルソナ』シリーズになります。

この『ペルソナ』は、悪魔を使役するのではなく、悪魔の能力を自分の超能力として使う形式にアレンジされています。
悪魔をとっかえひっかえして使うイメージが仮面を変えるようなので、ペルソナ能力と呼ばれます。
ビジュアルイメージは、悪魔を背後霊のように呼び出してバトルさせるので、漫画の『ジョジョの奇妙な冒険』に出てくるスタンドのようなものになります。

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ストーリーは、叔父の家に預けられた高校生の少年が、街で起こる連続殺人事件の謎に迫るというものです。
ジュブナイル的な友情と冒険の物語に、サスペンスの要素が入ったもので、登場人物たちの心の闇やコンプレックスを暴きながら、それを乗り越えていくお話です。

少年少女の物語だけではなく、主人公の叔父のドラマ(刑事である彼の妻がひき逃げで死んだが、その犯人は捕まっておらず、彼は妻の死を消化できていない)など大人の葛藤も描かれており、年齢を問わず楽しめるのではないでしょうか。

さて『ペルソナ』ですが、この作品はユング心理学を下敷きに世界観が作られています。
『ペルソナ』というのは、ユングの言うところの社会に参加する人は、社会的役割を演じるために一定の人格を演じる(心の中の生の人格では生きていない)という思想の術語です。
ですので、設定の随所にユング心理学の用語が使われています。

例えば、敵であるモンスターは「シャドゥ」という名前です。
なりたくない自分、認めたくない自分の事をユング心理学では「シャドウ」と言います。本作では、登場人物の心の闇がシャドゥとして暴れ、それを認め受け入れることで、成長していくという物語構造をとっています。

さて、作中では出てこないのですが、このペルソナの世界は、フィレモンとニャルラトホテプという善なる神と邪神の対立があり、フィレモンによって与えられた善なる力がペルソナとなるという設定になっています。

フィレモンとは、もともとはユングが、心の中の機能を元型というキャラクターで表したキャラの一人です。
有名なのは男性にとっての理想の女性を表す「アニマ」というのがありますね。
フィレモンは、人を正しい方向へ導く老賢人のイメージです。
脳内会議のメンバーをキャラ付けしたと思えばわかりやすいでしょうか?

ユングは、このキャラのうちアニマとか、アニムスとか、フィレモンとか、グレートマザーは人類共通だと考えたわけです。

とはいえ、フィレモンと言われても意味不明ですよね?
フィレモンは、聖書にあるパウロが書いたとされる『フィレモンへの手紙』(ピレモンへの手紙)から、ユングが名前を取ったものです。

となると、「フィレモンって、どんなすごい人だろう、業績はなんだろう?」と気になりますよね。
なにせ、キリストが磔刑されたのは人類全体の贖罪だ、なんていうウルトラCの理論を生み出したパウロが名指しで手紙を書き、聖書に載っているのですから。
(普通に考えれば「お前の教祖、死刑になってんじゃん。神さまに祝福されれないじゃん」となりますから)

結論から申し上げると、フィレモン、何もしてません。
そもそも何者かわかりません。

じゃあ、この『フィレモンへの手紙』に何が書かれているかというと、前略草々的な長いキリスト教挨拶を除くと「オネシモって奴隷を送り返すからよろしく。あと、(今、獄中にいるけど)出所したら、俺も泊めてね」と書いているのです。

あんまりな内容なので、非キリスト者の中には「パウロって書いてるから、中身も読まずに聖書に入れたんじゃね?」という人もいるくらいです。

なぜユングが人類共通の心の中の大賢人をフィレモンにしたのか?
本人に聞けないのが残念です。

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