2020年7月26日 (日)

コングレス未来学会議【アニメレビュー】

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今日のアニメレビューは『コングレス未来学会議』です。

2013年公開(日本では2015年公開)のイスラエルとフランス合作映画です。
とはいえ、実際にはかなりたくさんの国の参加があったようですが。

原作はスタニスワフ・レムの『泰平ヨンの未来学会議』、1971年のSF小説です。
スタニスワフ・レムは、ポーランドのSF作家で、日本で有名な作品は『ソラリス』(ソラリスの陽のもとに)があります。

映画『コングレス未来学会議』は、女優のロビン・ライトがプロデューサーの一人に名を連ねており、原作とは異なったテーマと構成になっています。
ロビン・ライトさんは、ネットフリックス躍進の立役者になった『ハウス・オブ・カード 野望の階段』で重要キャラクターのクレア・アンダーウッドを演じたことも印象深いですね。

さて、まずは原作ですが、これは泰平ヨンという宇宙飛行士の宇宙版ガリバー旅行記ともいえる泰平ヨン・シリーズの終盤のお話です。

未来学会議というのは、人口問題(人口爆発)を扱う国際会議で、そこに専門家でもないが義理で参加することになった泰平ヨンがテロで有毒ガスを浴び、その幻覚作用で夢幻の世界を彷徨うという筋立てです。

どうにもコールドスリープで140年ほど眠らされていた泰平ヨンが目覚めると、そこは豊かな理想社会でした。
しかし、違和感を感じたヨンは、次第に真実に近づいていき、その世界は、既に滅びに瀕しており、支配者は、その現実を隠すために、薬物で人民に「幸福で豊かな生活をしている」という幻想を見せているということがわかります。

「われわれがこの文明に麻酔をかけたのだ。さもないともちこたえられないんだ。だから覚醒させるわけにはいかない」
「合法に登録されている人口だけでも690億、他に登録されていない非合法な住民が260億はいる。(中略)ここ15年か20年で氷河期がやってくるだろう。その進行を阻止することは不可能だし、遅らせることもできない。できるのは隠すことだけだ」

SFなので薬で幻想を見せていますが、統計をごまかして不景気をイザナギ以来の好景気と言ってみたり、いつの時代も、どの国も、嘘偽りで現実をごまかしていることに変わりはありません。

為政者も手をこまねいて滅びを待っていたわけではありません。
他の惑星への移住を計画し、宇宙飛行士を送り込み、惑星改造を試みました。
しかし、起こったことは、専門家による偽の報告ばかりが返信され、予算が無限に膨らむだけで、何一つ進捗しませんでした。

「ウィルスのワクチンは1年でできます」とありえない報告をする「専門家」の意見を鵜呑みにするしかない政治家の姿が浮かびます。(治験をすっ飛ばして、安全性も効果も不明なワクチン物質ならできる可能性もあるけども)

さて、原作のテーマは、滅びという目に見える未来に、人間という生き物の業は手も足も出ないというものですが、映画版は少し変わります。

まず、未来学会議の前に、がっつり映画の尺の半分を使って、技術の進歩で「職業」を失う女優の葛藤を描きます。
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かつて大女優であったけど、今や落ち目のロビン・ライトに、映画会社が彼女のすべてのデータをスキャンし、電子女優にしたい、彼女本人は二度と演技をしてはいけないという契約を持ち掛けます。
この契約をめぐる葛藤の物語を実写で描きます。

ロビン・ライトやハーヴェイ・カイテルの見事な演技が光るパートです。
CGなんかにとって代わられるものか、というロビン・ライトの秘めた情熱が伝わってきます。

中盤からは、女優を引退し20年たったロビン・ライトが映画会社主催の未来学会議(本作では新商品発表会)に招待され、幻覚剤でアニメの世界に迷い込みます。
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ここからは陸地が海になり、奇妙な魚が泳ぐなど、サイケデリックな映像センスを楽しむパートになります。
日本アニメにはない映像センスをお楽しみください。
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映像については、万国アニメ名場面や有名アートの博覧会が見れます。
主人公が飛ぶシーンは「ハウル」を思わせますし、

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主人公の娘が所属している自然主義者の世界はヒエロニムス・ボスの『快楽の園』のようです。

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登場人物も、どこかのアートで見たような・・・

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本作はハリウッド批判は、がっつり入ってますが、文明批判は薄味なので、つながりは悪いのですが、終盤は、主人公が家に置いてきた障害を持つ息子を探して現実世界に帰ることになります(主人公がコールドスリープしている間に行方不明になっている)。

現実世界に戻った主人公に知らされるのは、息子は半年前に幻想世界(アニメ世界)に旅立ったという・・・すれ違いです。

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さて、ここで主人公がとった行動は・・・


本作の名優たちの演技とアニメと実写のシームレスな連携は圧巻です。
お暇があればぜひご覧ください。

 

2020年7月18日 (土)

バンクシー消される【時事・アート】

今週「バンクシー消される」という事件が話題になっていました(20年7月16日)。

【バンクシー新作、消される 地下鉄は落書き禁止】
https://www.jiji.com/jc/article?k=2020071600211&g=int

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バンクシーが消されるということが物議をかもす、ということ自体が、アートというものの理解が「多様」なのだなと思い、少し解説したいと思いました。

バンクシーという人は、おそらく英国の、おそらくというのは正体不明だからですが、英国のアーチストです。
路上の塀などにイラストを描くという活動をしています。

彼の絵は、オークションなどで高値を付けるなど、世俗的にも評価が高く、先だって小池都知事がネズミの絵と並んだ写真を撮って「バンクシーかも」とtweetして物議をかもしたりしました。

そのせいもあって、絵が消されたことに議論が起こったのでしょう。
「価値のあるアートを消すなんて」という意見と「路上に描いているのだから落書きだ。消されて当然」という意見のぶつかり合いですね。


私の思いとしては「バンクシーのアートはパフォーマンスアートなので、お家に帰るまでが遠足であるように、消されるまでがアートです。最後まで気を抜かずに、しっかり消しましょう」というものです。


「パフォーマンス」というのは、1950年代から1960年代にかけアラン・カプローが展開した芸術活動です。
「ハプニング」ともいいます。
ここには、アートの本質は何か、という問いかけがあります。


アートというと、絵画や彫刻のような作られた「モノ」をイメージするのが一般的かと思います。
だからこそ、画廊で絵が売られ、絵が財産として企業の金庫の中で眠っていたりするのです。


カプローたちは、ざっくりというと、「アートの本質はモノではなく、観た人の心の動きにあるのではないか」と問いかけたのです。

この問いを先鋭化するために、壁に水で絵を描いたりします。
消えて残らないということが重要なメッセージなのです。

カプローの取り組みの商業化された「なれ果て」が、ディズニーランドで、清掃員が箒で絵を描くカストーディアルアートになります。
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多くの人は、絵画という芸術で、絵そのものより感動体験の側に価値を見出すというう考えには違和感を感じると思います。


そこで、補助線を引きます。
音楽をイメージしてみてください。

音楽の感動は、楽譜を読むことにあるのでしょうか?
楽譜を見て感動できるという人は、かなり訓練された変態だけでしょう。
(演奏家や作曲家は、楽譜を読んで音をイメージできるので楽譜で楽しめますが)

芸術の本質は、モノとは言い切れないといことがわかるかと思います。

この「パフォーマンス」に対しては、「それは演劇であって、絵画・彫刻の文脈で語るべきではない」という批判があります。
そりゃそうだ。


さて、バンクシーですが、文脈的には、この60年代のカプローのリバイバルなので、残すことに意味はないのです。

とはいえ、そこにバンクシーの絵があれば、観光客の誘致にもつながるので、世俗的には保存したくなるでしょうけど・・・


さて、最後に、音楽の価値について、少し、補足しておきたいと思います。

現在、音楽の権利は著作権で保護されています。
基本的に作詞家、作曲家の保護が手厚く、演奏家は「使わせていただく」という形になっています。

この表れが「JASRAC対ヤマハ音楽教室」裁判です。
これは、ヤマハ音楽教室で、講師が生徒の指導をしている行為(特に模範演奏)は、著作権法上の「公演」にあたるとして、JASRACがヤマハに著作権使用料を求めたものです。

JASRAC自体は、作詞家・作曲家の権利を代行する組織ですので、仕事をしているだけなので、JASRAC批判をする気はありません。

私が感じる違和感は、音楽の感動体験における演奏家の役割は大きい中、演奏家を目指す人に、今の法制は冷淡だな、ということです。
(演奏家にプロもアマもなく、目指す人に子供も大人もない)

音楽は、演奏されて完成するもの。
もう少し、バランスの良い法制度にできないのかと感じました。

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