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2020年8月

2020年8月28日 (金)

まちカドまぞく【アニメレビュー】

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さて、今日のアニメレビューは、第二期の制作も決まった『まちカドまぞく』です。

ちょうど一年前の19年7月からの放映です。
ジャンルは、魔法少女ものですが、特徴としては悪役である魔族の少女を主人公にしたということです。

というと、バットマンの世界を悪役ジョーカーから描いた『ジョーカー』のようなハードな作品をイメージしかねませんが、かなり緩いコメディになっています。

ある日、夢のお告げで、自分が魔族の血を引いていると知らされ、魔族として覚醒した女子高生、吉田優子(よしだゆうこ)は、一族にかかった呪いを解くために、魔法少女を探し出し、倒し、その生き血を魔族の祖先の霊が宿る像に捧げなければいけないことになります。

歴代の魔族が敗北を続けたせいで「吉田家の使える生活費は月4万円まで」という呪いがかかっているのです。
なお、医療費・教育費・暖房費は、ある程度融通が利く呪いになっています。

優子は、魔族としては「シャドウミストレス優子」と名乗っているのですが、周囲からはシャミ子と呼ばれています。

そんなシャミ子の同級生、千代田桃(ちよだ もも)が魔法少女と判明し、シャミ子は挑みますが、シャミ子は、生まれついての虚弱体質で、相手にまったくダメージを与えられず、敗退。
これで勝ったと思うなよ~」と捨て台詞を残して逃げます。

桃も積極的に魔族をせん滅することを考えておらず、むしろシャミ子と友達になりたいと友好的に接します。
シャミ子が、何度となく桃に勝負を挑みますが、そのたびに口八丁でうやむやにします。
知能の面でも残念なシャミ子が、桃に、いいように言いくるめられるのも楽しい見どころです。


さて、本作、近年のアニメには珍しい二期制作が行われるほどのヒット作なのですが、その最大の要因は、根底に流れる利他精神に基づく優しい世界観でしょう。


桃が、自分以外のやる気満々な魔法少女にシャミ子が狩られないよう、トレーニングに付き合い、魔力のビーム技を教えたとき、自分の心からの願いを呪文にしろと言われたシャミ子は、世界を征服したいでもなく「みんなが仲良くなりますように」と叫びます。

第一期では、そこまで話は進みませんが、自分の出生の秘密を知り、自分が多くの人の善意で命をつないでいることを知るシャミ子は、自分の魔族としての目標を、自分を生かしてくれた人が作った「多魔市」(多摩市というより東村山市のイメージ)を守ることに定めます。

「多魔市」は、魔族と人と魔法少女の共存を望む人物が作り上げ、その人は死産同然のシャミ子の命を救うため自分を犠牲にして消えてしまったのです。

一期の最終回で、行方不明のシャミ子の父が、難病のシャミ子に残したメッセージがナレーションとして語られますが、その内容は「がんばれ優子。優しい、強い魔族になるんだ」というものでした。
魔力とか体力とか戦闘力ではなく、優しさこそが強さになるという作品のメッセージが伝わる、よい演出でした。

一見するとただの萌えアニメに見える中で根底に流れる思想性の高さが、本作を人気作にもち上げたのだろうと思います。

特に凝った作りのお話ではありませんが、この機会にぜひ見てもらいたいと思います。

2020年8月18日 (火)

神様ドォルズ【アニメレビュー】

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今日のアニメレビューを始めますどすえ。

今回取り上げるのは『神様ドォルズ』。
2011年放映の作品で、原作は「やまむらはじめ」さんが、『月刊サンデージェネックス』で2007年から連載した作品です。

田舎から都会に出てきた過去のある大学青年「枸雅匡平(くが きょうへい)」が、故郷の因習から逃れられずにトラブルに巻き込まれていく話で、一番のカラクリは「案山子」というロボットです。

空守村という村に伝わる鎮守の神様の力を宿した木製のロボットで、「隻」と呼ばれるシャーマンのみが操ることができるという設定です。
この神道的なロボという設定は個性があってうまいですね。

おそらく、この案山子は、日本の古代宗教における宿り木ですね。
日本の神様の依り代というのは、村の中にそびえる木なのですが、この「よりしろ」を屋根で囲ったものを「やしろ(社)」というわけです。
なぜ「木」かというと、日本の神様は「柱」だからです。
この神様は普段は村にはいないのですが、客神としてやってきて一時的に木に泊まるわけです。まあ、マレビトなわけです。
(なお都会の一般家庭にも年初には神さまがくるので門松を立てて宿ってもらいます)

さて、主人公の匡平は、村でも最有力の隻だったのですが、村で起こった猟奇事件を機に、村に嫌気がさして、隻の地位を妹に押し付けて都会に出たわけです。

その猟奇事件を起こしたのが、枸雅 阿幾(くが あき)です。
苗字が同じなのは兄弟だからではなく、田舎の支配者一族同士だからですので、誤解なきように。

物語は、安楽に大学生活を送っている匡平の前に、村の座敷牢に幽閉されていたはずの阿幾が現れるところから始まります。
阿幾も、もちろん案山子使いの隻なので、お話は双方の案山子が激突するバトルものになるわけです。
ただ、本作では、匡平は、隻を降りているので、妹の詩緒(うたお)ちゃんが前面に立つのですが・・・(キービジュアルも詩緒ちゃん推しです)

この詩緒の愛らしさも、本作の魅力です。
なにせ、このころは空前の萌えブームなので、こういう小さな女の子なしに商品は成立しません。

おそらく、この作品の映像化権を取ったプロデューサーは狂喜乱舞し、監督や脚本家は勝利を確信したでしょう。
個性的な設定、魅力的なキャラ、原作通りにきちっと作ればヒット間違いなしです。しかし、まあ、結局は主題歌どおり、不完全燃焼な内容になってしまいました。
(本作の主題歌は「不完全燃焼」。良い曲なので、結構バズりました)

原作8巻で話も中盤の段階でアニメ化しており、スタッフは、まずは前編として本作を作って、そのヒットを受けて二期で完結させるつもりだったようですが、完結してない作品なので売れ行きが悪く、二期はお蔵入りになりました。

そんな本作ですが、その位置づけを簡単にいえば『八墓村』が『のんのん村(のんのんびより)』になる通過点のような作品です。

『八墓村』は、田舎という前近代に、探偵の合理的・科学的推理という近代の光を当てることで、前近代を解消して近代に塗り替える話です。
結末はご丁寧にも、都会育ちの主人公が、故郷の八墓村にコンクリート工場という、戦後復興と産業化、つまり近代化の象徴を建築し、八墓村の前近代が克服されるというものです。
これが、1971年、三島が死んだ直後の日本のモードです。
イデオロギー闘争が生活主義に敗北し、日本という国が経済第一に突き進む時代ですね。

『のんのんびより』は、主人公である4人の少女が、ただ田舎ぐらしをする話です。
これは産業社会が挫折したバブル崩壊後、ゼロ年代(2000-2010年)に、バトルロワイアルとセカイ系にヒキコモリ、いよいよ疲れ果てて退行した10年代の日常系と美少女動物園のモードです。
近代に疲れ果てたので、葛藤も因習もない理想の前近代を作ってみたということですが、現実はそこまで単純ではないのでね。
(癒しという意味ではよい作品です。私も5周くらいローテーションで観てます。これと「私に天使が舞い降りた!」があれば、この先も生きていけると思います)

なんにせよ。ポスト八墓村時代の僕らは、近代の蹉跌も知っており、その克服の可能性を前近代に感じているわけです。だから少女になって、のんのん村に帰りたいというモードも生まれているわけですね。

「八墓村」の猟奇殺人に幕を開けた本作『神様ドォルズ』では、主人公は、その田舎の前近代から遁走します。
しかし、前近代は、決して彼を、つまり僕たちを許してはくれません。
阿幾の脱走と、主人公への襲撃は、阿幾の姿を取った前近代の闇の来襲です。

となると、この物語は、阿幾という前近代と向き合い、乗り越え、場合によっては阿幾という前近代を受容した先にある成長が描かれないと、視聴者は到底満足できませんね。

ところが不思議なことに、序盤、主人公の前に姿を見せた阿幾は、中盤以降、急速に存在感をなくし、話は、匡平に片思いする美少女隻の「まひる」による匡平ストーキング話に脱線していくのです。

いやまあ、まひるちゃんは可愛いですよ。
声優も棒演技が魅力の花澤香菜さんです。
なんと、本作「まひる」では花澤さんは、従来の棒演技に加えて、切れ演技を身に着けていました。
何というか、時速130キロくらいの棒球ストレートしか投げられなかったピッチャーが、あまり曲がらないスライダーを身に着けたみたいで、その成長には驚かされました。
(花澤さんは個性が光る素晴らしい声優さんです)

こうしたキャラの魅力はよく表現できている本作ですが、匡平と阿幾の決戦が描かれず、それは、僕らが近代と前近代に、どう折り合いをつけるかという問いにも応えられないという点で、結局、一つの作品としての最終評価ができないというのが本音です。

つまるところ「八墓村」的サスペンスが始まったかと思ったら、美少女萌えアニメに着地していたということです。それは近代の超克よりも癒しを求める時代の要請だったのかもしれません。

2020年8月15日 (土)

グランベルム【アニメレビュー】

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さて今日は、19年の夏アニメ『グランベルム』です。
ちょうど一年前の放映です。

魔法少女がロボットに乗ってバトルロワイアルを勝ち抜くという、『魔法少女まどか☆マギカ』にロボットが出てきたら、カレーにハンバーグが乗ってるみたいでゴージャスじゃん、という志の高い作品ですね。

物語は冒頭、平凡な少女、小日向満月(こひなた まんげつ)が放課後の学校で、異世界に変貌した学校に取り残され、そこで魔法少女が操るロボットの決闘に巻き込まれます。
『まどか』における「鹿目まどか」の立ち位置です。
悪役っぽい魔法少女たちに追い詰められた満月を、ほむらっぽいルックスの新月・エルネスタ・深海(しんげつ エルネスタ ふかみ)が助けます。
エルネスタの説明によると、1000年前、世界は魔法に満ちていたけども、当時の魔法使いが魔法を「マギアコナコス」(おそらくは決闘の舞台になっている異界)に封じ込めたとのこと。
エルネスタたちは、数十年に一度、魔術師の子孫たちによって行われる「グランベルム」というバトルロワイアルに勝ち残ることで、「マギアコナトス」にある魔力すべてを手に入れることを目的に戦っているとのこと。
今回の「グランベルム」も佳境に入っているのだけど、なぜか途中出場の権利を得てしまった満月も、特に明確な目標もないまま、「グランベルム」に参加します。

ここまでの書きっぷりから、私が『グランベルム』を評価していないと誤解している人もいるかもしれませんが、そうではありません。
なんというか、もう少しチューニングを行えば10年代を締めくくる名作になっただろうに惜しいなと残念に思っているのです。

何と言っても、美しい美術と感情を揺さぶる演出は絶品で、それだけでも見る価値はあります。
特に、11話終盤、最終決戦に臨む新月ちゃんと満月ちゃんの前、琵琶湖の向こうから赤く巨大な月が昇るシーンは、劇場作品級の圧巻です。
もう、このシーンだけでおなかいっぱいです。ごちそうさまでした。

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キャラクターも魅力的で、新月の幼馴染で新月の才能に嫉妬する魔術師アンナ・フーゴの狂いっぷりは、「全てをかけたストーキングと言う名のライフワーク」というキャッチコピーに結実しています。


さて、本作のポイントは「コナトス(コナトゥス)」です。
マギアコナトスは1000年続く魔力の結晶ですが、本来のコナトゥスは人類史2500年を経て探求が続く、世界の真理のことです。

長い年月で意味は変容してきましたが、簡単にいえば「自己保存力」のこと。
「在るものが、あるべきようになる力」と思えば良いかと思います。

例えば、土に蒔かれた種は、芽を吹き、茎をのばして、葉を張り、花を咲かせる。
種の中に花は入っていないが、何かの力で花になる。
木から切り離されたリンゴは、必ず地面へと落ち、地面で止まる。

こうした事象には「コナトゥス」が働いていると考えられたわけです。

このコナトゥスは、情報においては、情報の自己展開(自己組織化)として働き、人間の内面では「意志」や「自我」にかかわると考えれれてきました。

例えば、ホッブズは感情が集積することで「生きる意志」としてコナトゥスが形成されると考え、この流れを受けながら、ショーペンハウエルはコナトゥスを「権力への意思」と読み替えました。

これをさらに脱構築するのがニーチェで、ニーチェは「権力への意思」という用語を権力を求めるものでも、富を求めるものでもなく、意思ですらないと位置づけます。
つまり、「ただ生きたい」という純粋な生存本能が「権力への意思=コナトゥス」で、これは教育や文化で押さえつけられていると考えたわけです。
この考え方から、「理性を取り除き野生がむき出しになると強い」というイメージが生まれ、エヴァンゲリオンの暴走やビーストモードを生むわけです。

さて、ニーチェにおいて、コナトゥスは意思なき力となり、コナトゥスの世界形成力は、誰かの意志によって方向づけられる必要が出てきます。
コナトゥス自身は、何者にもなれるが何者にもなれないからです。
(この力の方向をアドルフ君が方向づけるとナチズムになるのです)

コナトゥスが、自らの世界形成力の方向を定める主人を求めて、人間にバトルロワイアルを強いるというモチーフで、近年成功している作品があります。
それは『真・女神転生III-NOCTURNE』というゲームで、東京受胎というカタストロフィで、東京が内に閉じた卵世界になり、その中心に輝くカグツチが、次に生まれる世界のありようの決定を複数の人間にゆだね、勝ち残ったものが、世界の創生者になるという物語です。
この世界のありようを「コトワリ」といい、「コトワリ」は人間にしか生み出せないというのが面白いですね。
世界の方向性には自我(エゴ)が必要ということなのでしょう。


さて、本作『グランベルム』ですが、コナトゥスというせっかくの舞台装置を用意しながら、物語の主軸は、グランベルム参加者の個人の事情の解決にとどまってしまいました。ゼロ年代モードのセカイ系の枠内にとどまったのは残念です。

できることなら、卑近な個人的事情から始まった戦いから世界的意義を見出し、創生の力と関わっていくような展開があれば10年代を締めくくるのにふさわしかったのに。

まあ、私が言いたいのは、10月末発売の『真・女神転生III NOCTURNE HD REMASTER』が楽しみで仕方ないということだけです。

 



2020年8月13日 (木)

ぼくらの【アニメレビュー】

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今回はゼロ年代を代表するビターな作品『ぼくらの』のアニメレビューです。

『ぼくらの』は、鬼頭莫宏さんの原作漫画を元にした2007年のアニメです。

漫画自体は、秋山ジョージさんの「ザ・ムーン」に着想を得たロボットものです。
原作とのテイストの違いなどもあり、原作ファンからは酷評されることもある本作ですが、今日の目から見ると、『魔法少女まどか☆マギカ』の先駆けともいえ、アニメ史的にも面白い位置にいます。


物語は・・・

臨海学校に来ていた中学生14名がココペリと名乗る謎の青年にロボを操って地球を守るゲームをやらないかと誘われ、「契約」をするところから始まります。
TVゲームと思い参加したところ、現実に巨大ロボットが現れ、彼らはそのパイロットとして、別に現れた敵ロボットと戦うことになります。
毎回、一人のパイロットが選ばれ、戦闘が終わるとパイロットは死にます。

負けて死ぬのではなく、勝っても生命力を吸われるように死にます。

その後、明らかになるのは、この戦いは、並行宇宙の間引きのために、それぞれの宇宙代表を戦わせ、勝った宇宙は残り、負けた方は宇宙ごと消滅するというバトルロワイアルだというカラクリです。
それを仕掛けたのは、我々とは異なる並行宇宙の人類で、我々よりも発展しており、宇宙が増えすぎることで、おそらくは並行宇宙全体が死滅することを避けるために、間引きを行っていると示唆されます。

正直なところ、問答無用で自分の宇宙だけを残して、片っ端から間引く方が効率的なのですが、他の宇宙の生き残りのための画策を搾取の手段にしているようです。

物語中では、我々の宇宙の財界が(子供たちの命に無関心に)ロボットの技術を経済活動に利用しようと、他の宇宙からエネルギーを吸い出す塔を建てたところ、それはトラップで、逆にエネルギーを永遠に搾取されるようになったという顛末になっています。


さて、本作は、ゼロ年代(2000年から2010年まで)に流行したバトルロワイヤル物の系譜なのですが、物語構造自体は、3・11の年にヒットした『魔法少女まどか☆マギカ』そのものです。

異界の悪意が思春期の少年少女を「契約」でヒーローにし、その見返りに宇宙を維持するエネルギーを搾取するというものです。

『まどか』は、おそらくは、ヤマト、ガンダム、エヴァに並ぶアニメ史のエポックとして記憶されるでしょうが、その原案ともいえるような『ぼくらの』は、知る人ぞ知る佳作にとどまってしまいました。

これも時代性というものでしょう。
ゼロ年代というのは、バブルが崩壊し、ロスジェネが認識され始めたころで、まだロスジェネは、たまたま就職難の時期で、その世代が不幸なのは当人の努力不足ととらえられていたころです。

それが11年の東日本大震災による意識変革で、世代間搾取の構造が露になったことが大きいかもしれません。

少年少女(若い世代)が世界のために犠牲になっている、という構造が一過性の景気変動ではなく、社会構造の変化として固定化されたため、まどかたち魔法少女の悲劇が、我がこととして受け入れられたのかもしれません。

あと、『魔法少女まどか☆マギカ』はストーリーはビターでしたが、最後はファンタジーで救っているので、視聴者が受け入れやすい、つまり罪悪感を持たずに済んだことも大きいです。

『ぼくらの』は、最後、子供たちは全滅し、その犠牲で我々の宇宙は救われるが、支配者へ一矢報いることもできず、搾取の構造も受け入れたままというビターな結末で、ちょっと救いがないのです。
ただ、この国が一直線に衰退しており、おそらく未来の子供たちは僕らの世代に搾取され、僕らは支配者たる他国に搾取され、その構造を変えることはできないという現実を正確に映しているのは『ぼくらの』の方なのですが・・・

でも、そんな現実、ごまかした方がヒット作にはなりますよね。

ヒットの原理は「共感と気づき」と言われることもありますが、本作は気づきたくないことへの気づきの強要があり、共感を排除しているというのが、通好みではあるのですが、大衆化しないポイントと分析いたします。
ヒットを作りた人は、『ぼくらの』を反面教師に、最後は甘い砂糖をまぶしましょう。
『まどか』になれます。

 

2020年8月 6日 (木)

serial experiments lain【アニメレビュー】

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今日のアニメレビューは『serial experiments lain』、アニメとしては98年の作品です。

この作品は、日本史、日本アニメ史ではなく、日本史において、極めて重要な位置にある作品です。
それは、日本の指導的立場の人々が、本作を理解していれば、その後の日本のIT敗戦はなかったかもしれないという意味で。

まずは、作品のあらすじから。

主人公の女子中学生、岩倉玲音のもとに、自殺した同級生から「私は肉体を捨てただけで、まだ生きている」「こには神さまがいる」「早くワイヤードに来て」というメールがくる。
そして、下校中に死んだはずの、無言の彼女に会う。
その後は、友人と訪れた渋谷のクラブで、自分のドッペルゲンガーが徘徊していることを知る。
玲音は、真相を知るべくワイアード(要するにインターネット)の世界に足を踏み入れる。

本作品のクライマックスはLayer:09(第9話)で、世界観の根幹が、かなり乱暴に暴露されます。
それは、ニューエイジ思想家たちの虚実入り混じった実験、理論、構想の積み重ねとして描かれます。

・ロズウェル事件、米国政府がUFOの残骸を回収し、宇宙人と密約を結んだという陰謀論だが、この事件の中心人物と目される科学者ヴァネヴァー・ブッシュは、1945年に反透明化されたスクリーンにマイクロフィルム化された情報を映し出すシステム「MEMEX」を提唱。この機械により人間の記憶を拡大することをもくろんだ(今でいうWikipedia)。

・ジョン・C・リリィは、インディオの麻薬物質とアイソレーションタンクによる感覚遮断実験によって人間の無意識を探り、無感覚の中、宇宙的存在を感じ、それを「E.C.C.O(地球暗号制御局)」と呼んだ。

・テッド・ネルソンは、衛星軌道上に巨大な静止電子図書館を打ち上げ、電波と電話回線によって地球上のどこからでも利用できるデータベースの構想、「Xanadu(ザナドゥ)」 を1960年に発表。現在のWorld Wide Webに結実している。

・地球には、電離層と地表との間、ELF帯に8Hzの周波数で常に共鳴が起こっていて、これを「シューマン共鳴」と呼ぶ。

・「バイラル・メディア」「デジタル・ネイティブ」などの概念を提起したことでも知られるダグラス・ラシュコフは、地球の人口はが脳内のニューロンと同じ数に達し、人間同士がネットワークで相互接続する事により、地球自身の意識をも覚醒しうると主張している。

本作は、こうしたニューエイジ思想家の思想を積み上げ、シューマン共鳴により、人間がデバイスなしに意識を接続させることができるのではないか、というフィクションを取り込むことで、ネット上に集合無意識が生まれ、ネットの集合無意識を人が現実として受け止める可能性を示唆しています。


重要なのは、このオカルト的展開ではありません。
重要なのは、シリコンバレーを中心とした、IT革命の基本思想は、こうしたニューエイジ思想であり、単純に便利なテクノロジーというものではないということです。

ただ、日本人にとって、ニューエイジはなじみが薄く、胡散臭く、受け入れがたいものがあります。
本質的に、ニューエイジは、西洋における近代化の失敗を、仏教などの東洋思想を取り込みながら乗り越えようとするものですが、日本人は、なまじ東洋人なので、切実な課題意識を持つことができず、西洋の物質文明の正義を鵜呑みにしているところがあるからです。

しかも、ニューエイジのコア思想は、相当に悪い意味でヤバイのです。
そのため、本作においても、ニューエイジの最大のグル(導師)の名は、周到に隠蔽されています。

その名は、ティモシー・リアリー、ニクソン政権に投獄された『神経政治学』の著者です。


リアリーの主張は、生物は8段階の段階を踏んで進化していくというものです。

人間は、今4段階目で、5段階目は、大麻などの薬物を通じて、3次元を超える認識を持てると言ってます。。

6段階目は、少し難しく、意識(神経組織)が、意識自体を再プログラムする、つまり、自らを新しい可能性に自分でプログラミングする段階と言ってます。そのためには、LSDなど化学ドラッグを使うと考えています。

7段階に入ると、科学ではよく理解できないというか、書いている本人もわかってないのではないかと思うのですが、神経組織がDNAから直接情報を取得できる段階と言ってます。しかも、DNAは、宇宙のすべての情報を持つアーカシックレコードだそうだ。(AKIRAのクライマックスは、この話)
リリーの研究者の中には、この情報を集団的無意識と呼んだりしますが・・・

第8段階は「量子レベルで脳ががユニットや関係をとりむすんでいく」と翻訳に書いてますが、書いた本人も、訳した人もわかってないだろう、という感じです。
まあ、日本のある天才が、第8段階を見事描いたのですが、それは後述。


さて、リリーの主張は、社会的にも健康上も受け入れられるものではないのですが、この思想から「電子デバイスを通じた人間知性の拡張」というコンセプトが生まれます。
その成果は、全世界で実現してますよね。
「そうiPhoneならね」

iPhoneというのは、アラン・ケイが、「MEMEX」と「Xanadu」を携帯できるように構想した「DynaBook」を具現化したものです(ケイ自身は両者の影響を明言はしてません)。

つまるところ、日本が受け入れられなかったITは、単に便利な新技術なのではなく、技術により人間の知性を進化させたいという思想が中心あったのですが、思想を嫌う日本では、その表面をなぞるしかできず、社会の中に存分に取り入れることもできなかったわけです。

日本人は、思想やビジョンの重要性を、もう少し実感した方がいいでしょう。

さて、長くなりましたが、最後にリアリー思想の日本における継承者について紹介しておかなければいけません。

リアリーの思想の中で興味深いものに「SMI^2LE」(Iは二乗)があります。
宇宙移民(SPACE MIGRATION)、知性増大(INTELLIGENCE INCREASE)、寿命延長(LIFE EXTENSION)の頭文字をとったものです。

「将来人類は、自分の好みにデザインした惑星である H.O.M.E.s(High Orbital Mini Earths 高軌道のミニ地球)に移住する。宇宙に出ると意識拡張が起こる」というものです。

どこかで聞いたことありませんか?

「ララアにはいつでも会いに行けるから」とか言ってますよね。


まあ、当人は「ハイラインの『宇宙の戦士』をモデルにしました。宇宙コロニーはオニールの構想です」といって、決してリアリーの名は口にしませんが・・・

 

2020年8月 1日 (土)

這いよれ! ニャル子さん【アニメレビュー】

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誰かに求められたような気がしたので、今日は『這いよれ! ニャル子さん』のレビューです。

『這いよれ! ニャル子さん』は、逢空万太さんの原作ライトノベルのアニメ化です。

おおよそ日米戦争以前の米国の作家ハワード・フィリップス・ラヴクラフトの生み出した「クトゥルー神話」と呼ばれる世界観をモチーフにしたお話です。

ラブクラフトの作品は、人知の理解を超えた異形の存在に翻弄される人間の破滅というモチーフが基本です。
その恐怖表現は、恐怖の対象である異形の者は直接に描かず、恐怖に震える人物の手記や伝聞で語られ、結末も当人がどうなったかわからないというもので、余韻もあり心に刺さるものがあります。

例えば、異形の者の気配におびえる人物の手記で、どんどんとモンスターが近づいてくる記述が続いたあと、物語は「窓に!窓に!」という記述で締められているものは有名です。
窓の外に異形の者を見た手記の書き手のその後はわからないというのは、ぞっとするものがあります。

他にも、友人のウォーランと洞窟の探索をする話で、ウォーランは穴に潜り、主人公が地上に残って、有線電話で状況を聞いているという話があります。
クライマックスでウォーランの恐怖の悲鳴が聞こえたのち、電話は静かになり、主人公が必死に呼びかけると、知らない人物の声で

「莫迦め、ウォーランは死んだわ」


ラヴクラフトは、自身のホラー小説のジャンルをコズミックホラー(宇宙的恐怖)と呼んでいました。
未知なる宇宙には、人類の知性を超えた恐ろしい存在がいるということが、彼の創作モチーフだったからです。
宇宙の前に人間は無力だという世界観です。

ラヴクラフト自身は、第二次世界大戦(1939年)より前の1937年に亡くなっています。
まさに科学が自然を圧倒し、人類は万物の霊長とうぬぼれあがっていた時代なので、彼のような、「人間という存在の矮小さ」を描く作品は日の目を見ず、生存中は評価されましせんでした。
彼が評価されたのは1960年代、近代化の失敗が明らかになり、科学万能主義への反省が意識されるようになってからです。

ラブクラフト作品の評価が他の作品と異なる特徴は、その世界観を利用した二次創作的な作品が多く生み出されたということです。
彼の生前から、彼の小説教室の弟子などを中心に、ラブクラフトの世界観を利用した作品が書かれており、ラブクラフト自身もそれを奨励していたことが、主な要因です。

かのアーサー・C・クラーク、『地球幼年期の終わり』や『2001年 宇宙の旅』の著者ですが、彼もラブクラフトの名作『狂気の山脈』のパロディ『陰気山脈』を書いたりしています。

さて、『這いよれ! ニャル子さん』ですが、これはラブクラフトが生み出した人気キャラクター「ニャルラトホテプ」を、ずっこけ美少女にして書かれたパロディ的なラブコメになっています。
ニャルラトホテプの二つ名が「這い寄る混沌(Crawling Chaos)」ということで、これに「夜這い」をかけたのではないかと思います(憶測)。
「クトゥルー神話」は、クトゥルーのキャラやアイテムを使えば、それでクトゥルーなので、定義的には、これも「クトゥルー神話」になるのですね。納得いきませんけど。

物語は、高校生の八坂真尋のもとにニャルラトホテプ星人の美少女ニャル子が現れ、宇宙連合の惑星保護機構のエージェント、まあ宇宙警官みたいなものとして、彼を宇宙の人身売買組織からボディーガードするという名目で、彼につきまとうという話です。

物語構造は、完全なる『うる星やつら』に始まるラブコメです。
主人公のもとに次々と美少女が現れ、正妻ポジションのヒロインがやきもちを焼くということでオチをつける。
本作のオリジナリティは、クトゥルーのモンスターや舞台が登場し、クトゥルー神話に対する知的好奇心が刺激されるというあたりです。
基本的にはクトゥルーを知っているほうが楽しめるでしょう。
予備知識は要求されますが、クトゥルーの使い方の上手さには、知的なパズル感があって楽しいですよ。

このラブコメというジャンルですが、基本的に、主人公がモテてうれしいという読者の願望を、そのまま新鮮にパッケージした、純度100%のエンタメなので、特に人間性や世界の在り方について、深く考察するようなものではありません。
頭を空っぽにして楽しむものです。

そのための装置として、寸止めシステムが採用されています。
主人公は、どんなに美少女に言い寄られても、決して、誰ともくっつかないというものです。
シャレにならない嫉妬や葛藤は排除しないとエンタメとしては重くなってしまいます。
『うる星やつら』のあたるくんは、軽薄で女性に好かれないということで、決して恋は成就しませんし、本作の真尋は「宇宙人、こわ!」と思っているので、やはり誰ともくっつきません。
ラブコメというのは、くっつくまでのドキドキを楽しむもので、くっついたら、それで試合終了です。

まあ、現実はくっついてからが地獄なのですが・・・

 



 

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