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2020年7月10日 (金)

機動戦士ガンダム 逆襲のシャア【アニメレビュー】

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さて、今日は日本アニメ映画の集大成、空前絶後の名作『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』です。

とはいえ、最初に断っておきますが、この『逆シャア』、単品で見ても意味不明ですし、ガンダムシリーズを順を追って観てきた人にとっても意味不明な内容です。
映画としての完成度は低く、破綻だらけの作品です。

それでも今日評価が高いのは、アニメを個人の本音をさらけ出す作家主義で作るという空前絶後の取り組みをやってのけたという偉業にあります。
その本音に共感できるかは別として。


この『逆シャア』、1988年の3月に公開です。
ちょうどバブルがはじける前、日本がバブルに狂ったイケイケの時代に「俺は人類を粛正するために地球に隕石を落とす!(腐った社会に鉄槌を下す)」という映画を公開したわけです。
当然、興行的には惨敗です。(11億円程度)


ただ、制作に参加した庵野秀明氏やアニメ監督の押井守氏など、業界人からの評価が高く、再評価されたという経緯があります。

この『逆シャア』がなければ、作家主義のアニメなどという発想は生まれず、後のエヴァンゲリオンなどの作家主義的なアニメはなかったかもしれません。


では、シャアこと富野由悠季さんは、何に怒っていたのでしょうか?

『逆シャア』は『機動戦士ガンダム』『機動戦士Ζガンダム(ゼータガンダム)』『機動戦士ガンダムΖΖ(ダブルゼータ)』と続いたガンダムシリーズの集大成として、二人の主人公アムロとシャアの巌流島決戦を描いた活劇です。
(ガンダムシリーズの主役は、これにブライト・ノアを加えた3名になる)

『機動戦士ガンダム』という話は、第一層に「かっこいいロボットのプロレスというエンターテイメント」があり、第二層に「亡国の王子シャアの復讐劇というシェークスピア的ドラマ」があり、第三層に「少年アムロの自立という文学」があり、深層に「物質主義に溺れる人間は、結局、戦争や環境破壊ばかりをしてきたという告発」があるわけです。

この深層を解決するための希望として、ニュータイプというニューエイジ的な「みんな深層心理ではつながっているから、きっと分かり合える。分かり合えば問題は解決する」というファンタジーを配置して丸く収めたのです。

本来は、きれいに終わった物語なのですが、商業的な要求から続編を求められました。
並みの作家なら『機動戦士ガンダム』の焼き直しで終わらせます。
イスカンダルのスターシャの代わりにテレサを出して、自爆させて「愛は貴い」とやれば、商業的にはオッケーです(悪く言ってごめん。この後、さらに続編がなければ、「さらば」は大傑作だったのですが)。


富野さんは、そういう続編はやりたくなかった。
そこで、テーマ自体を刷新します。
『機動戦士Ζガンダム』では、「人は分かり合えるといったよな。あれは嘘だ」というテーマで、徹底的にコミュニケーションの断絶を描きます。
この『Ζガンダム』の衝撃は、またいつか。


さて、『逆シャア』の怒りですが、普通に考えて、革命政権のボスであるシャアが、隕石を地球に落として地球を寒冷化することに、何の合理性もありません。
合理を超えた怒りがあるのですが作中では曖昧なままです。

これを読み解くために、富野さんは悪とは何だと描いていたかと振り返る必要があります。
『Ζガンダム』のラスボス、つまり作品における最高悪は、パプテマス・シロッコという人物を形作っています。
彼は、シャアとほぼ同じ歳の青年将校で、目標としているのは、自分の愛人を政権の首班に据えて「傍観者」になるということです(所詮は大尉程度の下っ端なので、リアリティはありませんが)。

非常にしょぼいというか、小物です。
しかし、富野さんは、本気で、この小人物こそ、憎むべき敵と考えていたきらいがあります。

というのも、『Ζガンダム』の前作にあたる『重戦機エルガイム』のラスボスも、同じような小物だからです。
『エルガイム』のラスボスは、オルドナ・ポセイダルという、5つの太陽系にまたがる数多くの国家を征服戦争で統一した帝王です。

というと、大人物に見えますが、物語のどんでん返しで明らかになるのは、オルドナ・ポセイダルは影武者の傀儡で、その影武者を操る「本物」は、死の商人であるアマンダラ・カマンダラです。
アマンダラ・カマンダラという人物が象徴しているのは、統治の責任を取らず、富と権力だけを享受する無責任な政治家です。
(しかも、ご手寧にアマンダラ・カマンダラ自体が、真の帝王ポセイダルの影武者にすぎず、本当のポセイダルは宇宙の彼方に旅立っている。この念入りな多重構造は、カマンダラの小人物ぶりと、政治家の無責任さを際立たせている)

Ζガンダムのパプテマス・シロッコはアマンダラ・カマンダラのなりそこないです。

富野さんは、ポセイダルの二重の無責任や二作にわたって同じモチーフの敵を設定することで、無責任への怒りを表明しているのです。
人類の近代化の失敗、バブルの狂乱に、みな踊るばかりで責任を取らず先送りしていると。

そして、この二作にわたって主人公は無責任の駆逐に失敗します。


『エルガイム』では、主人公は反乱軍のリーダーとしてアマンダラを倒す大殊勲を上げますが、ほどなく政権を追われ、故郷に隠遁します。
『Ζガンダム』では、主人公のカミーユは、パプテマス・シロッコを倒しますが、同時に心を破壊され廃人になります。死ぬよりひどい目にあったということです。

これは、社会の無責任というものに敏感な人は、政治家なんて務まらないし、正気を保つこともできないというメッセージのように感じます。

実のところ、シャアは、それを大いに自覚しながら、それでもカミーユとは違う狂気を振るおうとしているきらいがあります。
『逆シャア』の原作小説は、映画の前日譚から始まります。
そこでアムロはシャアがカミーユを戦争に巻き込み、結局、廃人にしたことをなじります。

それに対するシャアの返答に、彼が倒したい本当の敵が現れているように感じます。

「脆弱なのは美徳ではないよ!アムロ!大衆をみろ!官僚をみろ!連中は狂うか!?なにが起こっても平然として、生きながらえている!」


この言葉の重さは、富野さん自身が、この後、何年にもわたるうつ病の中で、家の外に出ることもできないほど病むことに現れるわけです。


彼の感受性を「考えすぎ」と気に病まず生きていくことも大切ではあります。
(愚鈍な大衆でなければ生きていけず、無責任でなければ社会人失格)
しかし、毎年激しくなる風水害を見ても「何かがおかしい」と感じざるを得ません。

とはいえ、そこにメスを入れ、サスティナブルな世界を作るということは、個人の自由や経済的繁栄を捨て、疫病や飢餓で数十億人を減らす選択になるので、おいそれと選べる道ではありません。(両立するなんて甘い考えを持つなよ)


私自身は、富野さんのメッセージを正面から受け止め、愚鈍な大衆として、狡猾な経済官僚として生きていく道を選んだのですけどね。
(ごめんな。未来の子供たち)

隕石は・・・落とせませんよ。

 

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