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2020年7月

2020年7月26日 (日)

コングレス未来学会議【アニメレビュー】

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今日のアニメレビューは『コングレス未来学会議』です。

2013年公開(日本では2015年公開)のイスラエルとフランス合作映画です。
とはいえ、実際にはかなりたくさんの国の参加があったようですが。

原作はスタニスワフ・レムの『泰平ヨンの未来学会議』、1971年のSF小説です。
スタニスワフ・レムは、ポーランドのSF作家で、日本で有名な作品は『ソラリス』(ソラリスの陽のもとに)があります。

映画『コングレス未来学会議』は、女優のロビン・ライトがプロデューサーの一人に名を連ねており、原作とは異なったテーマと構成になっています。
ロビン・ライトさんは、ネットフリックス躍進の立役者になった『ハウス・オブ・カード 野望の階段』で重要キャラクターのクレア・アンダーウッドを演じたことも印象深いですね。

さて、まずは原作ですが、これは泰平ヨンという宇宙飛行士の宇宙版ガリバー旅行記ともいえる泰平ヨン・シリーズの終盤のお話です。

未来学会議というのは、人口問題(人口爆発)を扱う国際会議で、そこに専門家でもないが義理で参加することになった泰平ヨンがテロで有毒ガスを浴び、その幻覚作用で夢幻の世界を彷徨うという筋立てです。

どうにもコールドスリープで140年ほど眠らされていた泰平ヨンが目覚めると、そこは豊かな理想社会でした。
しかし、違和感を感じたヨンは、次第に真実に近づいていき、その世界は、既に滅びに瀕しており、支配者は、その現実を隠すために、薬物で人民に「幸福で豊かな生活をしている」という幻想を見せているということがわかります。

「われわれがこの文明に麻酔をかけたのだ。さもないともちこたえられないんだ。だから覚醒させるわけにはいかない」
「合法に登録されている人口だけでも690億、他に登録されていない非合法な住民が260億はいる。(中略)ここ15年か20年で氷河期がやってくるだろう。その進行を阻止することは不可能だし、遅らせることもできない。できるのは隠すことだけだ」

SFなので薬で幻想を見せていますが、統計をごまかして不景気をイザナギ以来の好景気と言ってみたり、いつの時代も、どの国も、嘘偽りで現実をごまかしていることに変わりはありません。

為政者も手をこまねいて滅びを待っていたわけではありません。
他の惑星への移住を計画し、宇宙飛行士を送り込み、惑星改造を試みました。
しかし、起こったことは、専門家による偽の報告ばかりが返信され、予算が無限に膨らむだけで、何一つ進捗しませんでした。

「ウィルスのワクチンは1年でできます」とありえない報告をする「専門家」の意見を鵜呑みにするしかない政治家の姿が浮かびます。(治験をすっ飛ばして、安全性も効果も不明なワクチン物質ならできる可能性もあるけども)

さて、原作のテーマは、滅びという目に見える未来に、人間という生き物の業は手も足も出ないというものですが、映画版は少し変わります。

まず、未来学会議の前に、がっつり映画の尺の半分を使って、技術の進歩で「職業」を失う女優の葛藤を描きます。
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かつて大女優であったけど、今や落ち目のロビン・ライトに、映画会社が彼女のすべてのデータをスキャンし、電子女優にしたい、彼女本人は二度と演技をしてはいけないという契約を持ち掛けます。
この契約をめぐる葛藤の物語を実写で描きます。

ロビン・ライトやハーヴェイ・カイテルの見事な演技が光るパートです。
CGなんかにとって代わられるものか、というロビン・ライトの秘めた情熱が伝わってきます。

中盤からは、女優を引退し20年たったロビン・ライトが映画会社主催の未来学会議(本作では新商品発表会)に招待され、幻覚剤でアニメの世界に迷い込みます。
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ここからは陸地が海になり、奇妙な魚が泳ぐなど、サイケデリックな映像センスを楽しむパートになります。
日本アニメにはない映像センスをお楽しみください。
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映像については、万国アニメ名場面や有名アートの博覧会が見れます。
主人公が飛ぶシーンは「ハウル」を思わせますし、

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主人公の娘が所属している自然主義者の世界はヒエロニムス・ボスの『快楽の園』のようです。

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登場人物も、どこかのアートで見たような・・・

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本作はハリウッド批判は、がっつり入ってますが、文明批判は薄味なので、つながりは悪いのですが、終盤は、主人公が家に置いてきた障害を持つ息子を探して現実世界に帰ることになります(主人公がコールドスリープしている間に行方不明になっている)。

現実世界に戻った主人公に知らされるのは、息子は半年前に幻想世界(アニメ世界)に旅立ったという・・・すれ違いです。

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さて、ここで主人公がとった行動は・・・


本作の名優たちの演技とアニメと実写のシームレスな連携は圧巻です。
お暇があればぜひご覧ください。

 

2020年7月24日 (金)

Persona4 the ANIMATION【アニメレビュー】

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さて、今日はPS2の名作ゲーム『真・女神転生III-NOCTURNE マニアクス クロニクルエディション』が任天堂SwitchとPS4でリメイク販売されることを記念して『Persona4 the ANIMATION』のご紹介。

1986年に西谷史さんが発表したファンタジーSF『デジタル・デビル・ストーリー』のメディアミックスとして始まったゲーム『女神転生』(メガテン)の遠い子孫であるゲーム『Persona4』をアニメ化したものです。

『女神転生』シリーズは、交渉で仲間にした悪魔(仲魔)を使役してバトルをしながらストーリーを進めるRPGです。
ポケモンのハードテイストな源流と思えばわかりやすいでしょうか。
(ポケモンよりメガテンが先)

この『女神転生』シリーズの大ヒットを受けて、様々な派生作品が作られますが、派生作品の中でも人気が高いのが『ペルソナ』シリーズになります。

この『ペルソナ』は、悪魔を使役するのではなく、悪魔の能力を自分の超能力として使う形式にアレンジされています。
悪魔をとっかえひっかえして使うイメージが仮面を変えるようなので、ペルソナ能力と呼ばれます。
ビジュアルイメージは、悪魔を背後霊のように呼び出してバトルさせるので、漫画の『ジョジョの奇妙な冒険』に出てくるスタンドのようなものになります。

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ストーリーは、叔父の家に預けられた高校生の少年が、街で起こる連続殺人事件の謎に迫るというものです。
ジュブナイル的な友情と冒険の物語に、サスペンスの要素が入ったもので、登場人物たちの心の闇やコンプレックスを暴きながら、それを乗り越えていくお話です。

少年少女の物語だけではなく、主人公の叔父のドラマ(刑事である彼の妻がひき逃げで死んだが、その犯人は捕まっておらず、彼は妻の死を消化できていない)など大人の葛藤も描かれており、年齢を問わず楽しめるのではないでしょうか。

さて『ペルソナ』ですが、この作品はユング心理学を下敷きに世界観が作られています。
『ペルソナ』というのは、ユングの言うところの社会に参加する人は、社会的役割を演じるために一定の人格を演じる(心の中の生の人格では生きていない)という思想の術語です。
ですので、設定の随所にユング心理学の用語が使われています。

例えば、敵であるモンスターは「シャドゥ」という名前です。
なりたくない自分、認めたくない自分の事をユング心理学では「シャドウ」と言います。本作では、登場人物の心の闇がシャドゥとして暴れ、それを認め受け入れることで、成長していくという物語構造をとっています。

さて、作中では出てこないのですが、このペルソナの世界は、フィレモンとニャルラトホテプという善なる神と邪神の対立があり、フィレモンによって与えられた善なる力がペルソナとなるという設定になっています。

フィレモンとは、もともとはユングが、心の中の機能を元型というキャラクターで表したキャラの一人です。
有名なのは男性にとっての理想の女性を表す「アニマ」というのがありますね。
フィレモンは、人を正しい方向へ導く老賢人のイメージです。
脳内会議のメンバーをキャラ付けしたと思えばわかりやすいでしょうか?

ユングは、このキャラのうちアニマとか、アニムスとか、フィレモンとか、グレートマザーは人類共通だと考えたわけです。

とはいえ、フィレモンと言われても意味不明ですよね?
フィレモンは、聖書にあるパウロが書いたとされる『フィレモンへの手紙』(ピレモンへの手紙)から、ユングが名前を取ったものです。

となると、「フィレモンって、どんなすごい人だろう、業績はなんだろう?」と気になりますよね。
なにせ、キリストが磔刑されたのは人類全体の贖罪だ、なんていうウルトラCの理論を生み出したパウロが名指しで手紙を書き、聖書に載っているのですから。
(普通に考えれば「お前の教祖、死刑になってんじゃん。神さまに祝福されれないじゃん」となりますから)

結論から申し上げると、フィレモン、何もしてません。
そもそも何者かわかりません。

じゃあ、この『フィレモンへの手紙』に何が書かれているかというと、前略草々的な長いキリスト教挨拶を除くと「オネシモって奴隷を送り返すからよろしく。あと、(今、獄中にいるけど)出所したら、俺も泊めてね」と書いているのです。

あんまりな内容なので、非キリスト者の中には「パウロって書いてるから、中身も読まずに聖書に入れたんじゃね?」という人もいるくらいです。

なぜユングが人類共通の心の中の大賢人をフィレモンにしたのか?
本人に聞けないのが残念です。

2020年7月18日 (土)

バンクシー消される【時事・アート】

今週「バンクシー消される」という事件が話題になっていました(20年7月16日)。

【バンクシー新作、消される 地下鉄は落書き禁止】
https://www.jiji.com/jc/article?k=2020071600211&g=int

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バンクシーが消されるということが物議をかもす、ということ自体が、アートというものの理解が「多様」なのだなと思い、少し解説したいと思いました。

バンクシーという人は、おそらく英国の、おそらくというのは正体不明だからですが、英国のアーチストです。
路上の塀などにイラストを描くという活動をしています。

彼の絵は、オークションなどで高値を付けるなど、世俗的にも評価が高く、先だって小池都知事がネズミの絵と並んだ写真を撮って「バンクシーかも」とtweetして物議をかもしたりしました。

そのせいもあって、絵が消されたことに議論が起こったのでしょう。
「価値のあるアートを消すなんて」という意見と「路上に描いているのだから落書きだ。消されて当然」という意見のぶつかり合いですね。


私の思いとしては「バンクシーのアートはパフォーマンスアートなので、お家に帰るまでが遠足であるように、消されるまでがアートです。最後まで気を抜かずに、しっかり消しましょう」というものです。


「パフォーマンス」というのは、1950年代から1960年代にかけアラン・カプローが展開した芸術活動です。
「ハプニング」ともいいます。
ここには、アートの本質は何か、という問いかけがあります。


アートというと、絵画や彫刻のような作られた「モノ」をイメージするのが一般的かと思います。
だからこそ、画廊で絵が売られ、絵が財産として企業の金庫の中で眠っていたりするのです。


カプローたちは、ざっくりというと、「アートの本質はモノではなく、観た人の心の動きにあるのではないか」と問いかけたのです。

この問いを先鋭化するために、壁に水で絵を描いたりします。
消えて残らないということが重要なメッセージなのです。

カプローの取り組みの商業化された「なれ果て」が、ディズニーランドで、清掃員が箒で絵を描くカストーディアルアートになります。
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多くの人は、絵画という芸術で、絵そのものより感動体験の側に価値を見出すというう考えには違和感を感じると思います。


そこで、補助線を引きます。
音楽をイメージしてみてください。

音楽の感動は、楽譜を読むことにあるのでしょうか?
楽譜を見て感動できるという人は、かなり訓練された変態だけでしょう。
(演奏家や作曲家は、楽譜を読んで音をイメージできるので楽譜で楽しめますが)

芸術の本質は、モノとは言い切れないといことがわかるかと思います。

この「パフォーマンス」に対しては、「それは演劇であって、絵画・彫刻の文脈で語るべきではない」という批判があります。
そりゃそうだ。


さて、バンクシーですが、文脈的には、この60年代のカプローのリバイバルなので、残すことに意味はないのです。

とはいえ、そこにバンクシーの絵があれば、観光客の誘致にもつながるので、世俗的には保存したくなるでしょうけど・・・


さて、最後に、音楽の価値について、少し、補足しておきたいと思います。

現在、音楽の権利は著作権で保護されています。
基本的に作詞家、作曲家の保護が手厚く、演奏家は「使わせていただく」という形になっています。

この表れが「JASRAC対ヤマハ音楽教室」裁判です。
これは、ヤマハ音楽教室で、講師が生徒の指導をしている行為(特に模範演奏)は、著作権法上の「公演」にあたるとして、JASRACがヤマハに著作権使用料を求めたものです。

JASRAC自体は、作詞家・作曲家の権利を代行する組織ですので、仕事をしているだけなので、JASRAC批判をする気はありません。

私が感じる違和感は、音楽の感動体験における演奏家の役割は大きい中、演奏家を目指す人に、今の法制は冷淡だな、ということです。
(演奏家にプロもアマもなく、目指す人に子供も大人もない)

音楽は、演奏されて完成するもの。
もう少し、バランスの良い法制度にできないのかと感じました。

2020年7月15日 (水)

PSYCHO-PASS サイコパス【アニメレビュー】

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さて今回は2012年のアニメ『PSYCHO-PASS サイコパス』です。

このアニメのヒットでgoogle検索でも「サイコパス」というアニメがヒットしますが、もともとサイコパスというのは、反社会性パーソナリティ障害者を指す心理学用語です。
この場合はpsychopathと綴ります。
心理のpsychoと病や感情を意味するpathyから来た造語ですね。

この場合のサイコパスというのは、同情心が薄く、酷薄で、嘘を平気でつき、他人を心理的に支配・操作することに罪悪感を感じない人といったイメージです。
皆さんの周囲にもたくさんいますね。


さて、アニメのサイコパスですが、テレビドラマ『踊る大捜査線』の監督として知られる本広克行さんが総監督として企画し、『魔法少女まどか☆マギカ』で知名度を得た虚淵玄さんがメインストーリーライターとして基本的な物語の骨格を作り上げたものです。
非常に完成度が高く、大ヒットしたことから、何作かの映画と続編が作られています。

とはいえ、私にとっては、ヤマトが『さらば』で終わっているように、『PSYCHO-PASS サイコパス』は本作と映画第1作で完結しています。

なお、「私にとって完結」としては、他には小説版『幻魔大戦』があります。
『幻魔大戦』→『ハルマゲドン』→『ハルマゲドンの少女』で奇麗に完結しており、その後の『deep』などなく、ましてや「アニメ映画?なんですかそれ?」と。

で、本作『PSYCHO-PASS サイコパス』ですが、

100年後の未来である2112年の日本は、東京らしき都市一つだけが残り、そこだけに人が住むようになっています。
大きな戦争や天変地異があり、旧来の国家が衰退した世界のようです。
外国はあるようですが、内戦や貧困に苦しみ、都市国家の日本だけが繁栄しています。

この繁栄を支えているのが、人間のあらゆる心理状態や性格傾向の計測を可能とし、それを数値化する機能を持つ「シビュラシステム」であり、シビュラをベースにした適性に合った職業選択です。
つまり、超絶管理社会ということです。

物語の軸は、厚生省管轄の警察組織「公安局」の刑事が連続猟奇殺人事件の黒幕(槙島聖護)を追うというものです。

さあ、ここで重要なポイントが出てきました。
警察が厚生省管轄ということです。

要するに作者は「管理社会では自由意思はなく、自由のない場所に罪はなく、罪がないなら罰もなく、ただ病と治療(癒し)のみがある」と言っているわけです。
いきなりドストエフスキーをぶち込んできました。

このシビュラの世界は、戦争と環境破壊で滅亡に瀕した人類が生き残るための最良の手段と推進者(人工知能であるシビュラ自身)は考えています。

少し人類の現状を振り返ってみましょう。

いま人類は、石油のような地球が何万年もかけて、下手をすれば億の年月をかけて作った資源を、湯水のように浪費し、食い尽くしています。
石油だけではなく、建物を作るセメントも、1億年の時を経て作られた資源。
それをあっという間にビル群や大砲のトーチカに変えてしまいました。
あと百年を待たなくても破綻することは見えています。

この予定された破滅を避ける方法は大きく二つです。

一つは文明を捨てて野生に帰ること。
しかし、そればできません。
生物的に人間の遺伝子を持っていても、もはや人間ではない猿人でしかないからです。

もう一つの手段は、地球の再生産能力の範囲で活動すること、つまるところ人口を数億人程度に減らし、その発展を管理する、むしろ発展しないようにすることです。
三百人委員会(陰謀論に出てくる世界の支配者)は、それを『人類牧場計画』といいます。

『人類牧場計画』が、このシビュラの世界です。
当然、ディストピアであり人間性を否定した社会です。

そこで、本作では社会の外側からシビュラの世界を破壊しようとする槙島聖護を追いながら、ディストピアのグロテスクさを暴く筋立てになっています。
槙島聖護は、犯罪は人間の自由精神の表れであり、猟奇的であるほど人間性を発揮していると考える革命家なわけです。

通常、こういったディストピアものでは「管理された社会を脱出して自由を取り戻そう。人間賛歌!」となるところですが、本作は、その先を描いたことに画期があります。

新任の刑事である常守朱は、終盤、世界のからくり(人間がGAFAのAIに支配されている)を知ります。
そこで彼女がとった選択は、シビュラの破壊とか、シビュラのいない世界への旅立ちではありませんでした。

もちろん、シビュラを温存している限り、そこは理想社会ではありません。
本質的には、シビュラがなくても人類が欲望をコントロールし、地球を食い尽くさないようにすることが真に求められる結末です。
しかし、そんな風に人類が賢明になることなど、まったくもってリアリティが無いのです。
まずは、管理社会と折り合いをつけながら、人類の成長を待つしかないと考えたわけです。

その意味では、本作は、地球と人間の共生について、最先端に立った作品と言えるでしょう。

今の人類は、ここが精一杯です。

 

2020年7月13日 (月)

魔法少女まどか☆マギカ【アニメレビュー】

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今日は2010年代を代表するアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』(まどか)のレビューです。

『まどか』は、原作Magica Quartet。
Magica Quartetというのは、アニメ監督の新房昭之さん、脚本家の虚淵玄さん、漫画家の蒼樹うめさん、そして制作会社のシャフトの4者を意味してます。
それぞれの分野で実績のある4者を前面に出すことで、漫画などの原作がないオリジナルアニメをブランディングしたわけです。

本作、かなりトリッキーな物語構造を持っており、3話くらいまでは、ありきたりな魔法少女もの(魔法を使える少女が悪者を退治する話)に見えるので、こうしたビッグネームを前面に出していなければ、私も視聴しなかったと思います。


さて、レビューするにあたり、本作はこのトリッキーさが課題になります。
次々に起こる計算されつくしたどんでん返しに魅力のある作品なので、ネタバレなしに語ることはできません。

とはいえ、もう10年も前の作品なので、アガサ・クリスティーの『そして誰もいなくなった』の結末を知らない人がいない程度には有名という前提で書かせていただきます。


この作品は2つのどんでん返し(構造転換)で作られています。
一つは魔法少女の正体、もう一つは、物語の主人公は誰か、ということです。
この物語構造とテーマの話に入る前に、本作では、アートワークの魅力について語る必要があります。

と、その前に、最低限度のあらすじを・・・

主人公「鹿目まどか」の中学校に「暁美ほむら」が転入してくる。
放課後、友人の「美樹さやか」とショッピングモールに出かけるが、店内で道に迷う。
そこで白いぬいぐるみのような動物(キュゥべえ)が暁美ほむらに追われ、攻撃されている場面に出くわす。
さやかの加勢もありキュゥべえを救い出すが、いつの間にか周囲が魔界のような異空間となっており、その住人たる怪物に襲われる。
そこに上級生の「巴マミ」が現れ、魔法少女に変身し、二人を救出する。
魔界のような異空間は、人間を襲う魔女と呼ばれる魔物の結界とのこと。
その後、キュゥべえは、まどかとさやかにキュゥべえと契約して魔法少女になれば、一つだけ何でも願いをかなえると持ち掛けるが・・・

本作のアートワークは、劇団イヌカレーという二人組のアニメーターが担当しています。
シャフトの作品である『化物語』のEDで、切り紙細工のようなコラージュで映像を作るなど、セルアニメとは異なった手法でのアニメを作っていました。

魔女の結界という異空間を表現するにあたり、従来のセルアニメと異なるイメージを必要としたのでしょう。
本作では『化物語』では控えめだった彼らのセンスを開放しています。

彼らのアートディレクションの特徴は、現代アートのイメージをアニメに取り入れることにあります。
こちらは、『化物語』後、『まどか』前に、『さよなら絶望先生』のオープニングとしてイヌカレーが制作した映像の一シーンです。
主題歌のタイトルが『林檎もぎれビーム!』なので少女の頭がリンゴです。

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この頭がリンゴといえば、皆さんは思いだしますよね。
そう、ルネ・マグリットの『人の子』を。

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ルネ・マグリットはダリと並ぶシュルレアリスムの大家です。
シュルレアリスムというのは、芸術表現の破壊(を通じて社会通念を破壊する)を目指したダダイズムの流れと、フロイトの深層心理学の融合から、人間の心の奥底にある無意識的なものを表現しようとした芸術運動です。
ダリもそうですが、人の心を不安に駆り立てる表現を得意としている表現手法です。

このシュルレアリスムからポップアートが生まれてきます。
そして、ポップアートの後継者として有名なのが日本の村上隆さんです。

『まどか』も、しっかり村上隆さんをリスペクト指定ますよ。
物語全体を通じて重要な役回りの「お菓子の魔女(シャルロッテ)」。

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どこかで見たことありませんか?

ちなみにこれは村上隆さんの代表作。

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こうしたアートの文脈でアニメを見てみると、意外な発見があったりします。
(『進撃の巨人』って、つまるところゴヤだよね、とか)

さて、じゃあ何で村上隆か?
少し強引に、かいつまんで言うと、村上さんの主張に「原爆のせいで日本人は幼児的で特殊な奇形的文化を形成した」というものがあります。
無茶苦茶簡単にいうと「日本人は大人になれない」ということ。

『まどか』のテーマも「大人になれない」「大人にならない」と言えます。

『まどか』において、中盤、魔女の正体が明らかになります。
それは、魔法少女が夢と希望を失い絶望すると魔女になるというものです。
そして、終盤、この物語は、魔法少女にならない鹿目まどかではなく、まどかを魔女にしたくない暁美ほむらの物語であることが明らかになります(主役の交代)。

魔女についてキュゥべえは言います。
「この国では、成長途中の女性のことを、少女って呼ぶんだろう?」
「だったら、やがて魔女になる君たちのことは、魔法少女と呼ぶべきだよね」

魔女というのは、大人になった少女のことです。
『まどか』とは、少女が「大人になりたくない」と言っている物語なのです。

失恋を通じていち早く大人になった美樹さやかを見ておびえ、「私たちは大人にならないでおこうね」とまどかとほむらが約束し、その淡い約束が踏みにじられる話です。

終盤、まどかの犠牲ののち現実を生きるほむらは、まどかの弟、つまり子供だけがまどかを覚えていることを目にします。
円環の理(神さまになったまどかの名前)という概念は、少女という概念として子供だけが知っている。
まあ、ピータパンそのものなのですが・・・

そして、ほむらもいずれはソウルジェムが濁り、大人になっていくのです。
なるはずだったのです・・・

あの劇場版が作られなければ・・・

 

 

2020年7月10日 (金)

機動戦士ガンダム 逆襲のシャア【アニメレビュー】

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さて、今日は日本アニメ映画の集大成、空前絶後の名作『機動戦士ガンダム 逆襲のシャア』です。

とはいえ、最初に断っておきますが、この『逆シャア』、単品で見ても意味不明ですし、ガンダムシリーズを順を追って観てきた人にとっても意味不明な内容です。
映画としての完成度は低く、破綻だらけの作品です。

それでも今日評価が高いのは、アニメを個人の本音をさらけ出す作家主義で作るという空前絶後の取り組みをやってのけたという偉業にあります。
その本音に共感できるかは別として。


この『逆シャア』、1988年の3月に公開です。
ちょうどバブルがはじける前、日本がバブルに狂ったイケイケの時代に「俺は人類を粛正するために地球に隕石を落とす!(腐った社会に鉄槌を下す)」という映画を公開したわけです。
当然、興行的には惨敗です。(11億円程度)


ただ、制作に参加した庵野秀明氏やアニメ監督の押井守氏など、業界人からの評価が高く、再評価されたという経緯があります。

この『逆シャア』がなければ、作家主義のアニメなどという発想は生まれず、後のエヴァンゲリオンなどの作家主義的なアニメはなかったかもしれません。


では、シャアこと富野由悠季さんは、何に怒っていたのでしょうか?

『逆シャア』は『機動戦士ガンダム』『機動戦士Ζガンダム(ゼータガンダム)』『機動戦士ガンダムΖΖ(ダブルゼータ)』と続いたガンダムシリーズの集大成として、二人の主人公アムロとシャアの巌流島決戦を描いた活劇です。
(ガンダムシリーズの主役は、これにブライト・ノアを加えた3名になる)

『機動戦士ガンダム』という話は、第一層に「かっこいいロボットのプロレスというエンターテイメント」があり、第二層に「亡国の王子シャアの復讐劇というシェークスピア的ドラマ」があり、第三層に「少年アムロの自立という文学」があり、深層に「物質主義に溺れる人間は、結局、戦争や環境破壊ばかりをしてきたという告発」があるわけです。

この深層を解決するための希望として、ニュータイプというニューエイジ的な「みんな深層心理ではつながっているから、きっと分かり合える。分かり合えば問題は解決する」というファンタジーを配置して丸く収めたのです。

本来は、きれいに終わった物語なのですが、商業的な要求から続編を求められました。
並みの作家なら『機動戦士ガンダム』の焼き直しで終わらせます。
イスカンダルのスターシャの代わりにテレサを出して、自爆させて「愛は貴い」とやれば、商業的にはオッケーです(悪く言ってごめん。この後、さらに続編がなければ、「さらば」は大傑作だったのですが)。


富野さんは、そういう続編はやりたくなかった。
そこで、テーマ自体を刷新します。
『機動戦士Ζガンダム』では、「人は分かり合えるといったよな。あれは嘘だ」というテーマで、徹底的にコミュニケーションの断絶を描きます。
この『Ζガンダム』の衝撃は、またいつか。


さて、『逆シャア』の怒りですが、普通に考えて、革命政権のボスであるシャアが、隕石を地球に落として地球を寒冷化することに、何の合理性もありません。
合理を超えた怒りがあるのですが作中では曖昧なままです。

これを読み解くために、富野さんは悪とは何だと描いていたかと振り返る必要があります。
『Ζガンダム』のラスボス、つまり作品における最高悪は、パプテマス・シロッコという人物を形作っています。
彼は、シャアとほぼ同じ歳の青年将校で、目標としているのは、自分の愛人を政権の首班に据えて「傍観者」になるということです(所詮は大尉程度の下っ端なので、リアリティはありませんが)。

非常にしょぼいというか、小物です。
しかし、富野さんは、本気で、この小人物こそ、憎むべき敵と考えていたきらいがあります。

というのも、『Ζガンダム』の前作にあたる『重戦機エルガイム』のラスボスも、同じような小物だからです。
『エルガイム』のラスボスは、オルドナ・ポセイダルという、5つの太陽系にまたがる数多くの国家を征服戦争で統一した帝王です。

というと、大人物に見えますが、物語のどんでん返しで明らかになるのは、オルドナ・ポセイダルは影武者の傀儡で、その影武者を操る「本物」は、死の商人であるアマンダラ・カマンダラです。
アマンダラ・カマンダラという人物が象徴しているのは、統治の責任を取らず、富と権力だけを享受する無責任な政治家です。
(しかも、ご手寧にアマンダラ・カマンダラ自体が、真の帝王ポセイダルの影武者にすぎず、本当のポセイダルは宇宙の彼方に旅立っている。この念入りな多重構造は、カマンダラの小人物ぶりと、政治家の無責任さを際立たせている)

Ζガンダムのパプテマス・シロッコはアマンダラ・カマンダラのなりそこないです。

富野さんは、ポセイダルの二重の無責任や二作にわたって同じモチーフの敵を設定することで、無責任への怒りを表明しているのです。
人類の近代化の失敗、バブルの狂乱に、みな踊るばかりで責任を取らず先送りしていると。

そして、この二作にわたって主人公は無責任の駆逐に失敗します。


『エルガイム』では、主人公は反乱軍のリーダーとしてアマンダラを倒す大殊勲を上げますが、ほどなく政権を追われ、故郷に隠遁します。
『Ζガンダム』では、主人公のカミーユは、パプテマス・シロッコを倒しますが、同時に心を破壊され廃人になります。死ぬよりひどい目にあったということです。

これは、社会の無責任というものに敏感な人は、政治家なんて務まらないし、正気を保つこともできないというメッセージのように感じます。

実のところ、シャアは、それを大いに自覚しながら、それでもカミーユとは違う狂気を振るおうとしているきらいがあります。
『逆シャア』の原作小説は、映画の前日譚から始まります。
そこでアムロはシャアがカミーユを戦争に巻き込み、結局、廃人にしたことをなじります。

それに対するシャアの返答に、彼が倒したい本当の敵が現れているように感じます。

「脆弱なのは美徳ではないよ!アムロ!大衆をみろ!官僚をみろ!連中は狂うか!?なにが起こっても平然として、生きながらえている!」


この言葉の重さは、富野さん自身が、この後、何年にもわたるうつ病の中で、家の外に出ることもできないほど病むことに現れるわけです。


彼の感受性を「考えすぎ」と気に病まず生きていくことも大切ではあります。
(愚鈍な大衆でなければ生きていけず、無責任でなければ社会人失格)
しかし、毎年激しくなる風水害を見ても「何かがおかしい」と感じざるを得ません。

とはいえ、そこにメスを入れ、サスティナブルな世界を作るということは、個人の自由や経済的繁栄を捨て、疫病や飢餓で数十億人を減らす選択になるので、おいそれと選べる道ではありません。(両立するなんて甘い考えを持つなよ)


私自身は、富野さんのメッセージを正面から受け止め、愚鈍な大衆として、狡猾な経済官僚として生きていく道を選んだのですけどね。
(ごめんな。未来の子供たち)

隕石は・・・落とせませんよ。

 

2020年7月 8日 (水)

THE IDOLM@STER(アイドルマスター)【アニメレビュー】

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さて今日は『THE IDOLM@STER』(アイドルマスター)です。


2005年にアーケードゲームとして誕生し、07年に据え置きゲーム機のXbox 360に移植され人気も高まり、11年にアニメ化されました。
今日、大流行のグループアイドルアニメの嚆矢といえる作品です。


登場人物の中に、何らかの形でアイドルがいるという話は多いので、アイドルアニメの定義も難しいのですが、現在のアイドルアニメ全盛期を築いたという点で画期的な作品です。


このアニメ版アイドルマスター、アニメ化としては2回目で、2回目で大ヒットしました。『ドラえもん』や『遊戯王』も2度目のアニメ化でヒットしたというところに類似性があります。
まあ『遊戯王』は、初回のアニメ化も、それなりに評価が高いのですが。



初回のアニメ化は、ゲームのアイドルマスターが大ヒットしていた07年で、アニメ会社のサンライズを傘下に持つバンダイと、アイドルマスターを開発したゲーム会社のナムコが合併したことを記念して製作されました。
タイトルは『アイドルマスター XENOGLOSSIA』(アイドルマスター ゼノグラシア)。
『THE IDOLM@STER』は、王道のアイドル成長物語ですが、ゼノグラシアは、純然たるロボットものです。


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純然たるアイドル物語をロボットものに改編したら意外性があって面白いと思ったのか、ガンダムのサンライズにロボットもの以外に興味があるスタッフが居なかったのか、原作ファンの期待とは異なった内容になっています。


純粋にロボものとしてみれば、ポスト・エヴァンゲリオン時代のエヴァエヴァしいアニメとしては、結構、佳作の部類に入ります。
合併記念作ということもあって、丁寧に作られており、ロボアクションも少女の格闘アクションも良くできています。
物語も、ただ一点を除いて完成度が高いです。


ただ一点というのは、アイドルになろうかというような美少女たちが40メートルはあろうかという、人語を話すこともないロボットに本気で恋愛感情を持って、嫉妬心むき出しで恋のさや当てを繰り返すということで、さすがにおじさん理解しがたいよ。
(このくらいの狂気がないと記憶には残らないとも言えますが)



さて、賛否両論のゼノグラシアから4年、原作ゲームを忠実に再現した『THE IDOLM@STER』(アニマス)がヒットし、アイドルの群像劇という形式が確立します。
アニメ表現としては、ゼノグラシアが立体感のある骨格のしっかりしたキャラ造形に対して、ゲームCGの特徴を捉えながら、陰の少ない鮮やかな色味で構成された映像は、かなりPOPで軽やかなイメージになっています。
ゼノグラシアが新古典主義的な陰影表現とするとアニマスは光の表現を重視する印象派といえないこもないこともない・・・どっちだ?
両者を見比べることで、アニメ表現の多様性を感じることができるのではないでしょうか。



さて、『THE IDOLM@STER』のヒットがきっかけで、キャラビジネスも展開しやすいアイドルアニメは大量に作られ爛熟期にあります。
王道も多い中、様式の中でのクリエーターの戦い(同じフォーマットをなぞりながら個性を出す努力)が面白い分野ではあるのですが、その中で画期的と思われるのは、『ゾンビランドサガ』(18年)です。


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アイドルが全員ゾンビで、ダンスを踊ると首が取れるなどアイドルらしからぬビジュアルで、アイドルアニメの脱構築に成功しています。


個人的には、そろそろアイドルアニメを完全に脱構築して、秋元康の視点から「お前らアイドルに夢中になっているけど、いいカモやで」とか「アイドルになりたい少女って、なんなんだろうね」という物語を見てみたい気がします。

2020年7月 6日 (月)

機動戦士ガンダムUC【アニメレビュー】

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今回のアニメレビューは『機動戦士ガンダムUC』。
UCは「ユニコーン」と読みます。

含意としては、ガンダム世界の年号であるUC=ユニバーサル・センチュリーの略でもあります。
ユニバーサル・センチュリーは日本語では「宇宙世紀」です。

もともとは、ガンダムの版権をもつバンダイが、ガンダムビジネスを永続化するために、原作者の富野由悠季さん以外の人に物語を作らせることをもくろんで、『亡国のイージス』などで実力を示した、作家の福井晴敏さんにオリジナル小説として執筆させたものです。

これまでも、ガンダムというロボットを使い、世界観は別にしたガンダムシリーズや宇宙世紀を舞台にしながら、本編との関りを避けた外伝は作られていましたが、宇宙世紀という世界観の本筋にかかわる話を富野由悠季さん以外の人が書いたことは新境地と言えます。

アニメとしては、2010年2月から、半年ごとに60分のOVA(セルビデオ)として販売され、2014年6月に7巻で完結しています。
本来は6巻の予定が、想定よりもセールスも良く、7巻まで延長したうえで、7巻は90分となっています。
このあたり、本作の商業的成功がうかがえます。


おおよそ6年前から10年前の作品ですが、人類の手描きロボアニメの集大成という意味では、歴史的な作品と言えます。
アニメ歴史遺産というものがあるなら、オリジナルの「機動戦士ガンダム」と並んで選定されるでしょう。

というのも、この作品を最後に、ロボアニメは急速にCGアニメに置き換わっていく、時代の転換点にある作品だからです。
直後に「ガンダムUC」と同様のセルアニメ形式で展開された「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」ではメカ描写はCGに移り変わっています。


アニメが手描きかCGかということに多くの人はこだわらないと思います。
しかし、芸術としては、決定的に異なります。


絵画に倣っていえば、CGアニメは新古典主義、手描きはキュビズムといえるかもしれません。


どういうことかというと、日本の手書きアニメは、ディズニーのアニメなどと異なり、早々に3Dとしての整合性を放棄したものなのです。
これは、手塚が「鉄腕アトム」をTVで放映するにあたって、1週間で30分のアニメを作るという「不可能ごと」を実現するために、漫画の表現をアニメに大胆に取り入れたことに始まります。

例えば、顔のパーツと輪郭を別々に描き、開いた口と閉じた口を差し替えながら重ねて撮影することで、口の開け閉めの動きを作るというような手法です。

福笑いや浮世絵のように、顔のパーツをバラバラにして組み合わせるという手法になれていた日本人には違和感がありませんでしたが、当時は「リミティッドアニメ」と蔑まれていた表現方法です。

この表現が発展する中で、横顔に正面向きの口が組み合わされるという、アニメ読解力の低い人が見れば「気持ち悪く」感じるような表現が浸透していきました。
大きな目と並んで、アニメが嫌いな人がアニメに生理的な不快感を感じる一因になっていますね。

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でも、この横顔+正面口という表現、実にピカソだと思いませんか?
あ、思わない・・・

ピカソのキュビズム初期作品「アヴィニョンの娘たち」は、キュビズムの同志ブラックにさえ批判されました。
その理由が「顔が正面やのに、鼻が横向きやんけ!」というものです。

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キュビズムという手法は、物体を複数の視点からとらえ、その複数の姿を同時に一枚の平面に映し出すという手法で、一瞬にして物の多様な姿を総合的にとらえることができる表現です。

このキュビズムが理解されるのに時間がかかったように、記号としての絵を象徴として動かす日本的な「リミティッドアニメ」の価値は、長く時間や費用の制限からくる表現力不足と考えられてきました。

日本アニメの巨匠である押井守さんの「ジャパニメーション」が、相当に3D表現にこだわるのも、「リミティッドアニメ」自体の価値が浸透してなかったためと言えます。
(押井さんは実写の手法でアニメをやりたがる作家で、庵野秀明さんはアニメの手法で実写を作る人なのですが、それはまたの機会に)

この手書きアニメ、現実をそのまま映さず、描き手の解釈を描いているという意味で、実写やCGアニメにはない独自の表現を生みました。
1995年の「マクロスプラス」で、背景を広角レンズで描きながら、ドッグファイトの飛行機を望遠レンズで追うという表現は、その一つの表れと言えます。
(光学的、物理的に、現実には写すことができない表現)

近年、制作効率の問題もあり、メカもキャラも3D CGで作られるものが増えてきました。
こういった表現は、また独自の進化を続けるのでしょうけど、手書きアニメが減っていくことには、寂しさも感じます。

 

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