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2020年6月

2020年6月30日 (火)

えんどろ~!【アニメレビュー】

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あの微妙にヒットした、いや、むしろヒットしなかったTVアニメ「『えんどろ~!』が再放送!
それもサンテレビ1局で再放送!
ということで、今回のアニメレビューは『えんどろ~!』です。


まあ、おっサンTVという経営がしんどい神戸ローカルのUHF局での再放送なので、関東の方には無関係ですが・・・



『えんどろ~!』は、2019年1月から3月に放映されました。
監督は『ゆゆ式』の「かおり」、シリーズ構成は『干物妹!うまるちゃん』の「あおしまたかし」、キャラクター原案は『ゆるゆり』の「なもり」で、制作会社がStudio五組と日常系アニメの手練れが集まり、日常系オリジナル(原作がない)作品として世に出しものです。


当然にクオリティは申し分なく、もっとヒットしてもよかったのに・・・


おそらく強力な原作がないので制作委員会への出資が集まらず、放映局がTOKYO MXなどUHF系だけということで、露出が足りなかったのでしょう。
キャラの衣装は露出が多いのですけどね(ドヤ顔)。



あらすじは・・・


人々とモンスターが共存して暮らす剣と魔法の大陸「ナラル島」。
そこには恐ろしい「魔王」が存在していました。
はるかはるか大昔、ナラル島に現れた魔王を倒した初代勇者――
それからも、様々な時代で何度も何度も魔王は蘇り、
同時にそれに対抗する勇者もまた現れ…。


というもので、今回の勇者である少女ユーシャを中心とした4人組の少女が勇者学校に通う、ファンタジー世界を舞台にした学園ものです。


この物語、かわいいキャラと軽快なギャグを土台にしながら、複雑な物語構造を描くという、結構、意欲的な作品です。



一見すると、ユーシャを中心とした4人組が主役に見えます。
しかし、物語の真の主人公は別にいます。


それが、ユーシャ達の担任教師でありながら姿は幼女のマオです。
名前からわかるように正体は魔王です。


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物語の冒頭は、すでに4人組の冒険もクライマックス!
魔王城で魔王と対峙しています。


勇者の必殺魔法で魔王は倒されるのですが、その魔王は幼女の姿で過去に戻ってしまいます。
そこで、魔王ことマオは、勇者の誕生そのものを邪魔すれば、将来自分は退治されないと思い、勇者学校に入学した4人組の妨害を始めるのです。



さて、ではなぜマオが真の主役かというと、この物語は、マオが魔王という宿命から解放され救われる話だからです。


ユーシャたちとの交流を通じて、かつて魔王だったころの孤独を思い出し、そこから逃れたいが、周囲の期待もあって逃れられないというジレンマを通じて、最終的に解放される話です。



ここに倒すべき悪こそが救われるべき存在という構造の転換があり、悪役こそが主人公という役割の転換があります。
しかも、時系列の転換まである。


少し複雑すぎて、これを楽しめるのは、よほど調教されたマニアだけです。
スタッフはがんばりすぎです。
成績をつけるなら「がんばらないでおきましょう!」



しかも、運が悪いことに「倒すべき悪こそが救われるべき存在」という物語は、直前の2018年10月から12月に『SSSS.GRIDMAN』(要はアニメ版ウルトラマン)でやってしまっています。
それも、より分かりやすく洗練された形で・・・

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『GRIDMAN』は大ヒットしているので、この「倒すべき悪こそが救われるべき存在」というテーマは時代性があるのだと思います。
それはトランプ的な分断の時代に、敵味方を超えた包容力が必要とされているということかと思いますが、もう長くなってしまったので『GRIDMAN』で語ることにしましょう。

2020年6月28日 (日)

バーナード嬢曰く。【アニメレビュー】

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コロナ期間でお家タイムな中、この数か月は普段読まないような本を読んでました。

読みたいと思いながら後回しになっていた『ピーターパンとウェンディ』などの児童文学の名作や、ロリコンの語源になった『ロリータ』など・・・

特に、『ロリータ』は結構ギッチリと書かれた400ページ以上の大作で、まずもって登場人物に全く共感もできず、こんな時でないと一生読まなかったと思います。
ともかく、登場人物全員クズ、ヒロイン含めて全員クズ、というのは、ある意味、新鮮でした。


さて、今回のアニメレビューは、読書をテーマにしたアニメ『バーナード嬢曰く。』です。

『バーナード嬢曰く。』は16年10-12-月に放映された5分アニメ。原作は同名の漫画です。
通常のアニメは放送時間は30分程度、広告を除いて23分程度のフォーマットで作られています。5分アニメというのは、放送時間5分、実質3分程度、それも主題歌込みという短いものです。


内容は・・・


本を読むのが苦手だけど読書家ぶりたい女子高生「町田さわ子」を主人公に、SFマニアの女子高生「神林しおり」、図書委員でシャーロキアン(シャーロック・ホームズの大ファン)の「長谷川スミカ」、そして男子生徒の遠藤が織りなす「読書あるある」ギャグです。


タイトルの『バーナード嬢曰く。』というのは、主人公の町田さわ子が、自分のことをバーナード嬢と呼んでほしいと周囲に言っているが、誰も呼んでいないというところから来たタイトルです。
漫画原作では、当初、毎回、名著の名言を取り上げる内容だったので「曰く」となっていますが、アニメは最初から「読書あるある」に徹しています。


本作品の面白さは、何と言っても町田さわ子のグータラさです。
彼女の読書法は、

①あらすじを読んで展開が気になったので
②ネットで調べて、そのまま結末まで把握したのち、
③感想も含めて、いろいろ読み漁り、理解を深めて十分な読了感を得る

これを聞いた神林しおりは「それは、ただの読んでないだ!」と突っ込みます。

すまん。
俺もそんな読み方することあるよ。


とはいえ、町田さわ子が単にグータラなだけだと不快感も募るのですが、彼女の読書観は意外と純粋なところもあります。

彼女が好きな本は『さまぁ~ずの悲しいダジャレ』です。
とくに読んだからと言って自慢になるわけでもない、教養や知識が身につくでない本ですが、純粋に楽しみながら読んでいるのです。

それを見た神林しおりは「見栄とか関係なく、好きなものを好きと言えるのは素晴らしいな」と町田さわ子のことを認めるのです。

物語の終盤に向けて、この二人の友情の深まりが描かれていきます。
少しずつ読書そのものを楽しめるようになった町田さわ子の成長や、カフェで雨宿りしながらの読書の風景など、読書好き憧れの情景も描かれ、なんだか自分も読書に没入したくなってきます。

私も手始めにピエール・バイヤールの『読んでいない本について堂々と語る方法』でも読んでみようと思います。


 

2020年6月26日 (金)

シムーン【アニメレビュー】

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イージス・アショア配備停止の話もあり、日本の防衛について議論が起こっています。
論調としては「ミサイル防衛に変わる方法は?」「敵基地攻撃能力が必要か?」といったハードウェアの話のようです。

少し応用で、日米同盟が、自主防衛が、という議論もあるようですね。

しかし、そんな力の話をしていて、本当に平和は来るのでしょうか?
戦争と力の関係を考えるきっかけとして、今回は「シムーン」を取り上げてみたいと思います。

「シムーン」は2006年の作品です。
大空陸(だいくうりく)という全ての人が女性として生まれてくる星を舞台に、巫女として神に祈りを奉げる少女たちが否応無しに戦争に巻き込まれていく姿を描いています。

主人公「アーエル」は、祖母が巫女ではあったけど、庶民に堕ちた家の娘で、自身の社会的上昇や祖母の夢である「翠玉のリ・マージョン」(アクロバット飛行の技の一つ。最高難易度)を完成させることを目標に志願兵になりました。

ヒロインは、巫女として名門の娘で、初回の戦闘でパル(パートナー)を失ったショックで、自室にこもっている「ネヴィリル」。
こう書くと根暗なヒキコモリをイメージしてしまいますが、The お姫様というべき華麗な容姿と絶対的なリーダーシップとカリスマを持った人物です。
そういう人が戦いを拒んでいるということが、この物語の一つの鍵になります。

この他に、ネヴィリルに片思いし、ナイトになりたい「パライエッタ」、下層の出で社会的上昇への野心が強い「マミーナ」など、多彩なキャラクターが登場し、物語はアーエルとネヴィリルを軸にした群像劇として展開します。


すでに、巫女とか、戦闘とか出てきて、観ていない人には敷居が高い話になっていますが、このお話は、惑星「大空陸」のシムラークルム宮国(宮国)が、周囲の国すべてを敵にして戦争をしているところから始まります。

宮国は宗教的権威の中心であると同時に、ヘリカル・モートリスという超技術を持ち、未知の機関ヘリカル・モートリスを動力とした複座式の飛行艇「シムーン」を操る巫女がいることから、絶対的な軍事力を誇り、傲慢になってしまったことから、四方をすべて敵にしてしまったのです。
シムーンという巻貝のような美しい飛行艇は、一定の軌跡を描く「リ・マージョン」を描くことで(アクロバット飛行のイメージ)、時空を歪め、敵の大編隊も一網打尽にできるのです。


本作の特徴は、序盤8話にわたって、最強戦士であるネヴィリル(ヒロイン)が引きこもっているということで、当時、私は、この話はヒキコモリ問題を主題にしているのかな?と思ったものです。
結局、ネヴィリルは、シムーンの部隊が、ほぼ全滅し、母艦も墜落するという局面になって、仲間を守るため出撃しますが、時すでに遅く、宮国の敗北は時間の問題になっています。

シムーンの部隊の壊滅と母艦のピンチは、戦争相手の一国「プルンブム嶺国」の自爆テロによるものです。
嶺国が和平を求め使節派遣してきました。
宮国は交渉の場として、彼らを母艦に迎えたところ、和平は偽装で、自爆テロで母艦もろともシムーンの部隊を破壊されるのです。

それほどに周囲の国に憎まれていたということです。


私は、当時、ネヴィリル(ヒロイン)が、もう少しシャキッとしていれば、負けずに済んだのに、くらいに思っていました。
しかし、その後も、つらつらと本作を思い出す中で、少し考えも変わりました。

当初、ネヴィリルは、恋人が戦死したショックで引きこもったと受け止めていましたが、ネヴィリル達巫女は、本来的には神に祈るのが職責で、そもそも人殺しの道具にされること自体に不信感を持っていたのだなと理解しました。

主人公のアーエルや社会的上昇を目指すマミーナが闘いに積極的だったので、その視点に引きずられました。


さて、本作の今日的意味は何でしょうか?

もちろん、思春期の少女たちの群像劇、それぞれのキャラクターの抱える問題や生き様は、それ自体見ごたえもあり、時に応じて新たな気づきを与えてくれます。


それに加えて、本作で注目すべきことは、最強軍事大国の宮国は敗北したということです。

もちろん本作は創作物ですが、米国が一国覇権主義に失敗した今日なら、力が単純に平和を生むものではないということは理解いただけるのではないでしょうか?


今、日本は、100年ほど眠っていた獅子を隣国にもち、その力におびえ、力で対抗しようとしています。
もちろん、自立する程度の力は必要にしても、それが本当に平和と安全を生み出すのか、思案の時かもしれません。
(通常直接兵器などいくら保有してもキリがないという視点も含めて)


なお、本作では、シムーンに乗り込むときに、二人の巫女がキスをしてテンプスパティウム(神)に祈りを捧げなければいけないなど、映像美も魅力の一つです。

いい百合でした。ごちそうさまです。

 

2020年6月22日 (月)

私に天使が舞い降りた!【アニメレビュー】

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今回のアニメレビューは『私に天使が舞い降りた!』です。

2019年1月から3月に放映されたアニメです。


あらすじは・・・

人見知りの女子大生「星野みやこ」は、小学5年生の妹のクラスメートである女子小学生「白咲花」に一目ぼれ。葛藤を抱えながらも不器用ながら距離を縮めていく。


えー、何を言っているかわからない?
貴方は健全です。


このアニメの原作は雑誌『コミック百合姫』に連載されているギャグマンガです。
百合というのは、西洋絵画の図像学(イコノグラフィ)では、聖母マリアと純潔を意味しますが、日本のサブカルチャーにおいては「少女同士の行き過ぎた友情」を意味しています。

どうして「少女同士の行き過ぎた友情」を「百合」と呼ぶのか?


おそらくは、日本における「男性同士の行き過ぎた友情」を「薔薇」と呼ぶことへの対比からと思われます。
なお、男性同士の行き過ぎた友情を薔薇というのは『薔薇族』という雑誌からです。


百合というか、少女同士の行き過ぎた友情は、明治くらいから少女小説などでよく使われるモチーフでしたが、2000年ごろから、急速に男性ファンを増やしました。

この一つのきっかけが、幾原邦彦さんが監督した一連のアニメ「美少女戦士セーラームーン」や「少女革命ウテナ」です。

特に、少女向けアニメとして企画された「少女革命ウテナ」が、大きな男の子たちにウケたことで、百合ジャンルが広く認知されるに至りました。


大きな男の子たちが、男性の主人公に感情移入できず、アニメの主人公が、男性向けアニメでも女の子になった今日では、恋愛要素はもっぱら、百合として表現されることが多くなっています。


この日本の百合文化に大きく貢献したのは(書いてて頭が痛くなってきましたが)、雑誌『コミック百合姫』躍進の立役者である「なもり」さんの漫画「ゆるゆり」です。


それまで、百合漫画は、フランス映画っぽい独特のインモラルさを醸し出していましたが、「ゆるゆり」が、無邪気で、背徳感のない、自然体の少女同士の行き過ぎた友情を、コミカルに描いたことで、百合を百合と意識せずに、楽しく読むことができるようになりました。

この「ゆるゆり」を経過したことで、本作「私に天使が舞い降りた!」も成立できるわけです。

視聴者は、すでに「ゆるゆり」で教育済みなので、少女同士の行き過ぎた友情は、そういうものとして受け入れることができるわけです。
きっと子供はキャベツ畑に生えてくるのでしょう。

なお、私が「ゆるゆり」で一番好きなエピソードは、幼馴染の二人(当然、どちらも女の子)が、お遊びで婚姻届けを書いていて、どちらが妻か言い争いになり、結局、「夫」を「妻」に書き換えて、二人ともお嫁さんということで仲直りするという話です。

メタ的には、少女同士の行き過ぎた友情が、現実レベルで解消されたということになります。

そういうわけで、「私に天使が舞い降りた!」では、少女同士の行き過ぎた友情は、全く葛藤の対象になりません。
小学生への恋愛感情というのも、百合にしたことで、生々しさは脱臭され、何とかギャグマンガとして成立しています。
これが男子大学生が女子小学生に恋愛感情を持つなら官能小説か破滅系純文学になって、重くてしかたありません。

性愛を脱色できているおかげで、物語自体は、引きこもり気味の少女(女子大生)が、初恋を通じて社会に接し、自己評価を取り戻していくという、一級のエンターテインメントとして完成しています。

レインボーな話は置いておいて、少女が少女に恋をするという一定のずれのおかげで、年の差という問題も、映画「レオン」のような破滅型にもならず、無性的な恋愛ものという不思議な雰囲気が生まれています。

私は、ガチ百合は気が重くて苦手で、ゆるゆりは平気なのですが、思うに、ゆるゆりは、百合というより無性であることに魅力があるのかもしれません。


なお、私が百合漫画の最高峰と思っているのは、百合が好きだけど男に生まれてきたので当事者にはなれず、ただ傍観者でしかいられないことに苦悩する男子高校生を描いた「百合男子」です。

こういうのをアートというのですよ。

 

 

2020年6月19日 (金)

輪るピングドラム【アニメレビュー】

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今回のアニメレビューは「輪るピングドラム」(まわるぴんぐどらむ)です。
「輪るピングドラム」は2011年の7月から放映されました。

2011年の3月は東日本大震災とフクシマという2つの災害が複合的に起こった重要な年ですね。
ちょうどこのころ放映していた「魔法少女まどか☆マギカ」が、アニメ史的な大ヒットを記録したため、「輪るピングドラム」は陰に隠れる形になりましたが、当時の話題性を含めて、結構なヒットを記録しています。

あらすじは、こんな感じ。

荻窪の掘立小屋のような家に住む三人兄弟、二人は高校生男子「高倉冠葉(かんば)」と「高倉晶馬(しょうま)」、もう一人はおそらくは中学生の少女「高倉陽毬(ひまり)」。
陽毬は、余命いくばくもない病気で、一時的に帰宅していた。
3人で水族館に出かけたところ、陽毬が倒れ、そのまま命を失う。
兄弟が悲しみに暮れていると、突如、陽毬が起き上がり、「生存戦略」と叫ぶと、3人はイリュージョンの世界に迷い込む。
陽毬はプリンセス・オブ・ザ・クリスタルを名乗り、陽毬の命を救いたければ、「ピングドラム」なるものを手に入れろ、と二人に命じる。


この序盤10分程度の話だけで、相当な情報量ですね。

この「輪るピングドラム」を語るのは、相当に骨が折れます。
重層的な複数のテーマが、同時進行的に層をなして進行しているため、どの層に意識を向けるかで、観た人の感じ方が変わるからです。

第一層は、病弱ヒロインをめぐるラブストーリーです。
ゼロ年代のエモい「セカチュー」的なお話ですね。

その真下に、親(社会)に捨てられた者が、再生するという90年代的な承認欲求をめぐる物語があり、第三層に・・・

第三層以降が問題なのです。

タイトル画面を見ると「輪るピングドラム」というタイトルの下に、ピクトグラムで地下鉄の駅マークのような円の中に「95」という数字が書かれています。

この95は95年を、円と隣の電車マークは地下鉄を・・・つまり、オウムのテロ事件をテーマにすると宣言しているのです。

そして、この重いテーマを扱うがために、最下層に「不条理な世界で人はどう生きるのか(本当の幸せとは)」という極大のテーマを扱うことになります。

さて、そうとは言え、11年に放映し、95年の事件を扱うアニメを20年にレビューする意味は何か?ということも問われるでしょう。
その理由は、コロナにより、11年に95年を扱ったアニメが、現代的意味を持つと考えたからです。

ピングドラムのロゴを、もう一度よく見てみると現実の丸の内線とは、微妙に違うことに気が付きます。
現実の丸の内線は、駅番号を真円で包んでいるのですが、ピングドラムの円は、矢印であり、回転を示しています。
95年が繰り返すという意味にも取れます。

私は、この作品から、不条理が、95年の震災とサリン、11年の震災と原発事故、20年のコロナとロックダウンといった形で繰り返されており、95年の不条理を描く本作は、今日的意味を持つと感じました。

このモチーフを描くにあたって、監督にして原作者の幾原邦彦さんは、村上春樹の「かえるくん、東京を救う」を取り上げています。

9話で水族館で死に瀕した陽毬が経験した幻想体験を、回想の形で描きます。
サンシャインビル(水族館がサンシャインにある)の地下61階にある「中央図書館 そらの孔分室」に迷い込んだ陽毬が「かえるくん、東京を救う」を探して彷徨うというものです。

「かえるくん、東京を救う」は1999年に村上春樹が、震災とオウムをテーマに書いた連作『神の子どもたちはみな踊る』に収録されている短編です。


「かえるくん、東京を救う」という話は、こういう話です。

ある日、主人公の片桐(銀行の不良債権処理をしてる)がアパートの部屋に戻ると、巨大な蛙(かえるくん)が待っていた。
かえるくんは、3日後の2月18日に地震が東京を襲い、それに伴う死者はおおよそ15万人になる、その原因は、地下にこもって、世界の憎悪を吸収して巨大化し、思考することもなくただ怒っている「みみずくん」だと、そのみみずくんを退治することを手伝ってほしいという。
片桐はみみずくん退治に向かうが、途中で不良債権の回収先の人間からピストルで撃たれ、意識を失う。
病院で意識を取り戻した片桐のもとに、かえるくんが現れ、片桐の協力でみみずくんは退治され、東京は救われたと語る。
その直後、かえるくんの体は急速に腐り始め、かえるくんの全身から噴き出した虫が片桐を襲う。

この小説を、どのように解釈すべきかは各人の自由なのですが、私は、地震で呼び覚まされ憎しみから地震を起こす「みみずくん」は、天災を契機に人災が引き起こされることを暗示しているように思います。

これと「輪るピングドラム」の回転する95のピクトグラムを見て、95年は地震とテロ(憎しみ)という形で、11年は地震と原発事故(傲慢さ)、20年は病気とロックダウン(恐怖)という形で、天災と人災という不条理が、繰り返し人類を襲っていると感じました。


この不条理な世界で、テロのような憎しみや、技術の妄信という傲慢や、目に見えない恐怖に向き合いながら、どのように生きるべきかという問いに、本作「輪るピングドラム」では、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」をヒントにしています。


幾原邦彦さんは、優れた洞察で「銀河鉄道の夜」の神髄を端的に示しています。
物語の冒頭で、二人の小学生が、主人公の家の前を通りながら語るという形で・・・


小学生A「だからさ苹果(りんご)は宇宙そのものなんだよ。手の平に乗る宇宙。この世界とあっちの世界を繋ぐものだよ。」
小学生B「あっちの世界?」
小学生A「カンパネルラや他の乗客が向かってる世界だよ。」
小学生B「それと林檎(りんご)になんの関係があるんだ?」
小学生A「つまり、苹果(りんご)は愛による死を自ら選択した者へのご褒美でもあるんだよ。」
小学生B「でも、死んだら全部おしまいじゃん。」
小学生A「おしまいじゃないよ!むしろ、そこから始まるって賢治は言いたいんだ。」
小学生B「わかんねえよ。」
小学生A「愛の話なんだよ。なんで分かんないのかなぁ?」

宮沢賢治が「銀河鉄道の夜」で掲げた社会へのメッセージは「自己犠牲による他者救済」こそが、人が生きるに値する価値というものです。
賢治は法華経を通じた大乗仏教に日本社会の理想を見たということですね。


この賢治の理想は美しく、共感する部分も多いのですが、私たちは「自己犠牲による他者救済」という美しい精神が、国家権力に利用され、特攻という最悪な形に至ったことを知っています。
だから、それを文字通りの解決とはできません。

幾原邦彦さんも、そのあたりには無頓着ではいられないのでしょう。
最新作の「さらざんまい」では、主人公の一人に、自分を自己犠牲で救おうとする友人に向かって「自己犠牲なんてダセえ真似すんな」言わせています。

エゴを捨てることも、エゴを捨てないことも、どちらも大切で、簡単に一方にのめりこむべきではないということでしょうか。


「輪るピングドラム」自体がエンタメとしても、文学としても豊かなものですが、考え続ける幾原邦彦さんの次作も楽しみです。

 

かくしごと【アニメレビュー】

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今季の隠れた名作アニメ「かくしごと」が完結したのでレビューです。


「かくしごと」は、久米田康治さん原作の『月刊少年マガジン』連載漫画のアニメ化です。



久米田康治さんは「かってに改蔵」や「さよなら絶望先生」など複数のヒット作を飛ばす人気漫画家です。
ちょっとビターな社会風刺のギャグマンガで、最終回にはしんみりするエモい話を描くのが作風です。



今回の「かくしごと」は、10歳の女の子を娘に持つ父子家庭の漫画家が、自分の作風を恥じて、娘には漫画家であることを隠して暮らしているが、ばれそうになってドタバタするというギャグ作品です。
「隠し事」と「描く仕事」のダブルミーニングになっているわけですね。


このように久米田さんの漫画は、ネーミングが駄洒落的な面白さがあって、本作の主人公は後藤可久士(ごとうかくし→「かくし ごとう」)と、けっこうベタなネーミングです。
お話の中でも、飼い犬の名前を付けるときに、役所の登録で職員に「ご登録ですか?」と聞かれて、犬の名前を「後藤ロク」にしたりしています。



さて、久米田康治さんといえば、エモい最終回なのですが、本作もエモいですね。


ある事件をきっかけに、主人公は漫画が描けなくなり失踪します。
18歳になった娘が捜し当て、面会したところ「どちら様ですか?」。
記憶を失っているわけです。


仕事も、記憶喪失という形で家族も失った彼が、人間として、漫画家として再生するのが最終回のテーマです。



私は、久米田さんの大ファンなのですが、この作品は原作も読んでませんでした。
私自身が独身を通してきたこともあり、家族愛をテーマにした話には複雑な感情を感じてしまい、あまり楽しめなかったからです。


ここ数年、中高生の子育てをする羽目になり・・・べつに「かくしご」ではありませんが・・・子供を愛する経験から、ある種、吹っ切れたこともあり、アニメは見ることができました。


コロナ禍の中で、作画乱れず、放送が飛ぶこともなく家族愛を通じた人生の再生を描き切ったのは、お見事というしかありません。


なお、本作も良作でしたが、私自身が好きな久米田さんのアニメは「さよなら絶望先生」です。
特に好きなエピソードは『最後の、そして始まりのエノデン』。
それまでOPやEDを担当していた劇団イヌカレーさんが本編も担当した快作です。


イヌカレーさんは、この絶望先生で制作会社のシャフトと関係ができ、「魔法少女まどか☆マギカ」では空間設計という名目で演出の多くに関与することでブレークしていきます。



『最後の、そして始まりのエノデン』は、銀河鉄道の夜のような、ファンタジーの鉄道旅行の話です。
人生や国の行く末など、決着をつけなければいけない課題を持った人が乗り込み、終着駅を目指します。
主人公は、結婚する女性を決めるという決着を求められます。


その行き着いた終点は・・・・



「先送り」


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乗客の政治家は言います。
「借金は次の世代に先送りすることを決断しました」



この話大好き


 



 


2020年6月14日 (日)

ゼーガペイン【アニメレビュー】

400_20200614092501 爆死した名作アニメ紹介。
今日は「ゼーガペイン」です。

ロボットアニメの名門、サンライズ制作のSFロボットアニメ。
2006年の放映です。
このSFが付くところが大事ですよ。

さて、ここで取りあげるだけあって、このアニメは全く販売が振るわなかった「爆死アニメ」です。

どのくらい爆死したかというと、爆死アニメの爆死度合いの単位「1ゼーガ」という単位を生み出したほどです。
ゼーガペインはDVD売り上げが1,900枚なので、1ゼーガはDVD1,900枚を指します。

なお円盤の歴代最大売り上げは、当然のごとくエヴァで約13万枚。
深夜アニメだと、「化物語」や「魔法少女まどか☆マギカ」の8万枚が歴代の大ヒットですね。
おおよそエヴァの70分の1の売り上げです。

これほど左様に爆死ながら、完走(全話視聴)したファンからは熱烈な支持を受けています。
SFの賞である2007年度星雲賞メディア部門候補作にまでなっています。
受賞には至っていませんが・・・

ちなみに2007年の星雲賞は「時をかける少女」・・・相手が強すぎました。

 

爆死の理由は、いくらでも挙げられるのですが、一番の要因は「口コミによる販売増が難しい」ということがあるかもしれません。

見たことのないアニメを薦めるときに、薦められた人は、当然「どんなお話?」と聞きますよね。


私なら、こう答えるでしょう。

「それは言えない(キリッ)」

 

このお話は、目くるめくようなどんでん返しの連続という感動体験が魅力なので、ストーリーを知ってしまうと、楽しさ半減なんです。

私も、できることなら記憶を抹消して、1話から見直したいくらい・・・その時は、3話くらいで挫折しそうな気がしますが・・・


正直、序盤は「ああ、よくある話」と退屈に思うので、多くの人は、本当に面白くなる6話まで見ることなく投げ出すと思います。
なんで、オレ、6話まで見たんだっけ?


とはいえ、まったくお話が分からないとみる気もしないでしょうから、冒頭だけお伝えします。
なお、あらすじを見てみようとWikiは覗かないこと!
実際に見る楽しみが消失します。


県立舞浜南高校で高校生活を楽しむキョウは、幼馴染のリョーコの頼みで自主映画へ出演する事になった。撮影中、プールの飛び込み台に立つ謎の美少女シズノを目撃したキョウは、「水泳部への入部希望者だ!」と考えてシズノを勧誘しようとする。
だが、彼女はプールへと飛び込み、シズノはそのまま姿を消してしまう。
不思議なことに、学校の生徒たちはシズノの存在を認識していなかった。
同級生とのいさかいなどで行き詰まりを感じていたキョウは、気持ちを吹っ切るためにプールに飛び込み、異世界に召喚される。
そこはロボット同士が戦う退廃した都市だった。
キョウが乗り込んだロボに同乗していたシズノは、ともに戦うことを求める。

と、 ここまでで2話も使っています。


もし興味を持ったなら、まず6話まで見て、これはと思ったら、13話のエンディングの演出に震えてください。
そして16話で、さらにどんでん返しがあります。
楽しみですね。

 

2020年6月12日 (金)

AKIRA【アニメレビュー】

今日のアニメレビューは日本アニメ史の金字塔「AKIRA」だよ。


少し前に4Kリマスターが出たり、30年の月日が経っても色あせない不朽の名作です。とはいえ、なぜ今、わざわざ「AKIRA」に思いを馳せているかというと、やはりコロナのせいです。


ここのところ、ビジネスマンとしてはコロナ後の商機を考えつつも、本質的にはコロナが指示したものの意味と、人の生き方を考えざるを得ません。


私は、新型コロナが純粋に病気として、どれだけ恐ろしい病気かは正直わかりません。
しかし、コロナによるグローバルロックダウンが、一つの真理を指し示したと考えています。


それは


「人類は死を克服していない。克服することもない」


ということです。



ほんの少し前に ユヴァル・ノア・ハラリの「ホモ・デウス」がベストセラーになりました。
その要旨は、人類は疫病、戦争、飢餓という3つの生命の危機を(科学技術で)克服したので、サイボーグ化で不老不死を得たり、薬物で幸福をコントロールする神なる存在=ホモ・デウスになる、というものでした。


ハラリ自身の精神性はともかくとして、私は、人類はずいぶん増長したものだな、と生暖かく見ていました。


その人類の増長をあざ笑うかのようにコロナ禍が世界の動きを止めた中、不条理な死をどう見つめるべきか、私は明恵に関心を持ち、その論敵である浄土宗の中核経典である浄土三部経を眺めていました。
(5か国語を操る私とは言え、もちろん、漢文のお経やサンスクリット語は無理なので、日本語訳ですけど)



浄土三部経は『仏説無量寿経』、『仏説観無量寿経』、『仏説阿弥陀経』の3つのお経です。
無量寿経(大無量寿経)と観無量寿経は名前が似ているので紛らわしいのですね。



無量寿経(大無量寿経)は、法蔵菩薩が四十八願を立て、その中で西方極楽浄土(仏国土)を作り、すべての人を受け入れると誓う話です。
この四十八願の中核を「本願」といい、その意味を簡単に言えば「全員救う」ということになります。



阿弥陀経は、西方極楽浄土のビジュアル的なイメージを伝えるものと思えばいいと思います。



観無量寿経は、極楽往生の方法を書いているのですが、内容は瞑想=マインドフルネスです。
話の始まりは「王舎城の悲劇」という古代インドの一大スキャンダル、王子が王を幽閉し餓死させるという事件をベースに、王の妻=王子の母が、不条理な人生の苦しみから逃れる術をお釈迦様に尋ねる物語です。



さて、ではなぜ「AKIRA」なのかというと、そりゃ「AKIRA」が大無量寿経のアニメ化だからです。


それも極めて露骨で、一方の主人公である鉄雄(鉄人28号)のテーマ曲は大無量寿経そのものです。
曲名は「変容」です。
劇中では、鉄雄の力が暴走し、グロテスクな巨大胎児(怪獣=煩悩の化身)に変わり果てるときに流れます。


これを「泣いている」鉄雄を救いに来た金田がなだめ、鉄雄が異界に転生した時に、美しい女声合唱で「應時普地 六種震動 天雨妙華 以散其上 自然音樂 空中讚言 決定必成 無上正覺」と大無量寿経のクライマックス(極楽の情景)が歌われるわけです。
(曲名「変容」というのが、煩悩の化身=怪獣になる変容と、法蔵菩薩が阿弥陀如来に変容する二つの変容を描いているのが面白い)



この救われるべき煩悩が何か、ということは、物語を追っていてもなかなか明言はされません。
大友克洋さん自身が意識しているかもわかりません。



強引に読み解くなら「東京オリンピック」と「孤児院」がカギになるように思えます。
「東京オリンピック」は、戦後復興の象徴であり、科学と経済の発展が幸福に直結するという信仰を形にしたものと思えます。
金田や鉄雄が育った「孤児院」は、発展から取り残されたモノ、切り捨てられたものを示しているように見えます。



日本という国が経済さえ発展させれば「そのうちなんとかなるだろう(植木等=無責任)」と先送りしてきたものが、復讐にやってくる物語に見えます。
(映画における鉄雄の目的は、AKIRAの力を開放して、東京を消し去ること。鉄雄とAKIRA=28号と二つに分裂していた自己が鉄人28号として再統合されることで、完全な形で世界を滅ぼすわけですわ)
(なお東京=西洋物質文明に心を売った日本の象徴なのは関西人にとって常識ですね)



今回のコロナは、私には、世界が「まだ先送りするんですか?」と問うているように感じます。
観無量寿経で、釈迦は王妃の悲しみに対して「軍を率いて王子を倒し、王を救い出せ」とは言いません。
科学と経済という力の解決は本質ではないと言っているのです。



このテーマについて私の結論はまだありませんが、人間が神にはならないだろうことは、確信しています。




2020年6月 9日 (火)

この素晴らしい世界に祝福を!紅伝説【アニメレビュー】

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さて、「ミッドナイトゴスペル」で疲れた心と体を癒すため、今度は「この素晴らしい世界に祝福を!紅伝説」を見ることにします。

「この素晴らしい世界に祝福を!」(このすば)は、ライトノベルのレーベルである角川スニーカー文庫から発売されている、いわゆる「なろう系」小説が原作です。

「なろう系」というのは、web小説投稿サイト「小説家になろう」で書かれた小説のことで、多くはニートや引きこもりのような、なんの優越性もない主人公が、異世界に生まれ変わり、特殊能力を与えられてヒーローになるというプロットの話が多いです。

言うまでもないけども、これは極楽往生の話ですね。

ただ、おおくの異世界転生物は、現実のしがらみのない異世界で、棚ぼた的に異能を与えられ、葛藤なくちやほやされるという願望充足の話でしかないので、わざわざ解説する必要もありません。


小説や映画といった物語コンテンツには、大きく分けて、日常の苦痛を忘れさせてくれる麻酔系(ダウナー系)コンテンツと、世界の真実に目覚めることを突き付ける覚醒系(アッパー系)コンテンツがあります。

「ミッドナイトゴスペル」は、濃度の高いアッパー系で、異世界転生物はダウナー系ですね。


「このすば」も当然にダウナー系ですが、ご都合主義の異世界転生物の外しとして、少し捻りを加えているのが特徴です。

主人公の冒険仲間は女神と魔法使いと戦士、全員美少女ですが、女神は知性と慈愛にかけ、魔法使いはまともな魔法が使えず、戦士はドMというものです。
あとは、そういうズレたキャラクターが織りなすギャグ漫画を楽しむ構造です。
純然たる憂さ晴らしとして価値のある作品です。


さて、このような異世界転生物ですが、本来的には、純ダウナー商品ではありませんでした。

人が死んで常世に行く話です。
死を見つめて、生を理解するものが正統です。


この常世帰りの話は、やれオルフェウスだの、ギルガメッシュだの、イザナギだの超古典ですが、近代的な小説で開祖を探すと、まずは「ナルニア国物語」(1950年)になりますね。

 

ファンタジーバトル世界ということなら、イギリスの作家マイケル・ムアコックの「エターナル・チャンピオン」(1970年)があり、日本では高千穂遥の「異世界の勇士」(1979年)あたりが嚆矢になるのではないでしょうか?


アニメーションとして、エポックなのは、やはり「聖戦士ダンバイン」になります。
天才 富野由悠季が、1983年に放映した意欲作です。

海と大地の狭間にある、死後の魂が帰る場所「バイストンウェル」に妖精の妖力で生きたまま呼び出された人々が、世界の条理を破壊し、悲劇を生み出すという話です。

さすがは富野由悠季だけあって、現代的なダウナー娯楽としての異世界転生物ではなく、徹底的に「文学」をやろうとした意欲作です。


どのくらい文学かというと、主人公を呼び出した異世界の領主ドレイク・ルフトを取り巻く世界は、完全にシェークスピアです。


野心にあふれ、暗愚な主君を陥れて国を奪うドレイク、ドレイクの同盟国の王と不倫関係にある妻、娘はドレイクの仇の家の息子に恋をする。

これをおもちゃを売りたいロボットアニメでやるしかないのが富野由悠季の悲劇で、当然のようにおもちゃは売れず、スポンサーのクローバーは倒産。
良いものを作ればいいというものではない。商売というのは、難しいものです。

なお、「ダンバイン」のリメイク的作品であるアニメ版「リーンの翼」は(小説版という別の物語もある)、特攻隊員だった主人公がバイストンウェルに召喚され、戦国時代を生き抜いて王になり、現世の日本に復讐に現れるという、一段と狂気の増したお話なので、こちらもぜひ見ていただきたいものです。


 

 

 

2020年6月 7日 (日)

ミッドナイトゴスペル【アニメレビュー】

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やっとの思いで「ミッドナイトゴスペル」全8話を見終わったので、ご紹介です。

「ミッドナイトゴスペル」は、「Adventure Time」の作成者であるペンドルトン・ウォードとコメディアンのダンカン・トラセルによって作成されたアメリカの成人向けアニメーションです。

ネットフリックスの莫大な資金、ネット向けで大衆受けを無視できる環境が作り上げた奇跡の作品。
どれくらい奇跡かというと、お話のテーマは死と瞑想と悟りです。

え?理解できない?
死と瞑想と悟りですって!

ビジュアルからプンプン漂ってくる'60sヒッピーカルチャー、サイケデリックなモチーフと色彩、全編を通じてニューエイジ的スピリチャル全開です。

そして、ニューエイジということは仏教の話です。

このアニメの雰囲気を伝えるために、第一話の内容を説明しますね。

この「ミッドナイトゴスペル」は、基本構造として、その道のエキスパートに行ったインタビュー音声に、ペンドルトンのセンスでつけたアニメーション映像が乗るというものです。
話が後半になるほどに、アニメとストーリーの連動が密接になるのですが、第一話は、おそらく意図的に、ちぐはぐに作っています。

なにせ、インタービューの内容は「麻薬の是非」→「瞑想の効用」という流れで、アニメは「ゾンビパニック」です。

映像では、大統領がホワイトハウスを襲うゾンビをライフルで退治しながら逃げるという話で、その大統領の声を当てている精神科医は麻薬の是非について話しているという・・・

おそらく多くの人は、この第一話を見て「わけわからん」と思うでしょう。
これがペンドルトンの挑戦作だと知らなければ、私もこれ以上は見ないと思います。

ただ、3話くらいまで見れば、なんとか完走できると思いますので、第一話の補助線を引いておきたいと思います。

第一話では、ゾンビから逃げながら、麻薬の是非を語り、いきなり瞑想の効用を語りだします。
これは、かなり唐突で、意味不明に感じると思いますが、一つ気が付けば自然になります。

それは、この作品のテーマが「死」であり、その裏返しの「生きるということ」だと気が付くことです。

生きることは苦しい、ではそれを麻薬でごまかすのはどうか?
瞑想という手段もあるね。
瞑想で自分の苦しみを客観視することはできるけど、苦しみ自体はなくならないね。

という論理の流れです。

そして議論が行き詰る中、アニメとのリンクが完成します。
主人公はゾンビに噛まれ、ゾンビになります。
そのとたん世界の見え方が変わり、ゾンビとともに讃美歌(ゴスペル)を歌いだす。

「ゾンビ最高!」


この部分の読解も難しいですね。
要するに「死こそ救い」と言っているわけです。


二話以降は「人は死を受け入れられるか」とか「瞑想して悟った気になるなよ」といったテーマが取り上げられます。もうおなかいっぱいです。ご馳走様。


強烈に重たいテーマを濃度100%でぶち込んでくるので、観ていて疲れ果てました。
今日は「この素晴らしい世界に祝福を! 紅伝説」を見て、頭を空っぽにしたいと思います。

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